千葉県印西市で野菜苗の生産・販売を行なう伊藤苗木の創業者である伊藤茂男さんが、昭和30年代の5年間に書きためた漫画日記を一冊にまとめた『僕の漫画農業日記 昭和31〜36年−−14歳、農家を継ぐ』が2024年5月に発売されました。
評=湯澤規子(歴史地理学者・法政大学教授)
この本を読み、私は無性に著者と「土」に会いたくなってしまった。千葉県印西市で苗木業を営んできた著者の伊藤さんは言う。なんといっても苗は「床土(培土)がいのち」。本書に生き生きと描かれる土と人が織りなす世界は、現代という時代にも地続きで存在しているのだろうか。それを自分の目で確かめてみたくなったのである。いてもたってもいられなくなり、気づけば本書の舞台へと車を走らせていた。一冊の本を読んでこんなことをするなんて、初めてのことである。
そんな思い切った行動に出たのには理由がある。本書には、タテマエの歴史ではなく、実存する一人の人間の喜怒哀楽を伴うホンネの戦後日本農業史が描かれていたからである。しかも、ユーモアと躍動感あふれる漫画で。農業史における絵農書研究には「漫画」が含まれて然るべき。そう主張するのに十分な史料的価値が、この漫画農業日記にはある。
現印西市は近世には利根川水運の宿場町と周辺の農村地域で構成されていた。高度経済成長期にニュータウン開発が始まり、現在は大規模なデータセンターが次々と建設されている。その激動は地図や統計から描き出すことができる。
しかし、本書を読めば、変化とはより複雑かつ重層的であると思い知らされる。稲作に加えて情熱を注いだ土づくりと苗木栽培が伊藤さんの生きがいとなっていくこと。新旧の技術が併存する農業。仲間たちと学びながらスイカの集団栽培に取り組むはりあい。変化の渦中を生きる農業青年の葛藤と希望。暮らし全体を描くからこそ見えてくる日々の喜び。漫画から伝わってくるのは、伊藤さんが歩んできた、まるごとの人生である。それが読者の胸に迫る。
伊藤さんに会って話し、土もまた戦後を生き抜いてきたのだと知った。お土産にもらった落花生を噛みしめると、手塩にかけて育てられてきた豊饒な土の味がした。本書が伝えるのは、「土」と「人生」と「暮らし」の味わい、その関係史なのである。
農文協のnoteでは、湯澤規子先生が著者の伊藤茂男さんの元を訪問したときのエピソードを掲載しています。あわせてご覧ください。