『季刊地域』vol.57から始まった連載は、このウェブサイトで毎月更新します。誌面ではその3回分を1回にまとめて別連載として続きます。どちらもお楽しみください。
前田和男(ノンフィクション作家)
日本の近代化を支えたのは米国向け緑茶だった
新茶が芳しい香りと共に出回る時節になった。
今回からは、3回にわたって「茶と歌」について考察する。
初回は、流行歌と文部省唱歌と新民謡から、茶が日本の近代化に果たした役割について歴史をひもといてみたい。
おそらく読者諸賢は、日本史の授業で「わが日本の明治以降の近代化は生糸の輸出を原資にしてもたらされた」と習ったはずである。もちろんそれは間違いではない。しかし、今回改めて調べてみて、茶も生糸に次いで日本の産業革命のための外貨獲得に大いに寄与していたのだと認識を新たにさせられた。
江戸末期、「安政の開国」によって海外との貿易が始まるが、そのときから日本の主要な輸出品は生糸と茶だった。明治後期には、茶の全国生産量のじつに6割が輸出され、その8割がアメリカ向けだった。当時アメリカでは「ティー」といえば緑茶。それに砂糖とミルクを入れて飲まれていた。
その茶による外貨獲得で、勲一等の働きをしたのは、いったいどこのだれだったのか?
ヒントは、ある昭和歌謡の出だしにある。
♪清水港の名物は お茶の香りと男伊達~
まさかと思われるかもしれないが、静岡は清水の港といえば、そう、いわずと知れた「海道一の大親分」、あの次郎長である。
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この歌は1938(昭和13)年にリリースされた「旅姿三人男」(作詞:宮本旅人、作曲:鈴木哲夫)。次郎長一家二十八人衆のトップスリーである大政、小政に森の石松をテーマにした股旅演歌で、ジャズやブルースなど洋楽系を得意としたディック・ミネ(1908~91年)の演歌調ではないモダンな歌唱法が受けて大ヒットした。

筆者は戦後直後の生まれなので、この歌をリアルで体感してはいない。しかし、筆者の場合は石原裕次郎だったが、戦後も多くの大物歌手によって歌いつがれ、最近では氷川きよしがカバー、今も世代を超えた「現役懐メロ」ナンバーの一曲となっている。
「なんで大政国を売る」の真意とは?
もちろん、このイントロの歌詞は「清水は次郎長と茶の産地」といっているだけで、「次郎長が茶の輸出に貢献したこと」を示唆しているわけではない。その「示唆」は、次郎長の片腕の大政をフィーチャーした2番の以下の歌詞にある。
♪男磨いた勇み肌 なんで大政 なんで大政 国を売る
この箇所の解釈をめぐっては、かねてから昭和歌謡ファンの間で物議をかもしてきた。たしかに言語明瞭意味不明で、これまでのところ次の二つの解釈が有力とされているようだ。
一つは、「国を売る」の「国」を「生まれ故郷」と考え、大政が郷里である愛知県常滑を出奔、東海道を下って清水の次郎長一家に草鞋をぬいだ経緯をうたいこんだとする解釈だ。しかし、これは大政をほめたたえるどころか、「なんで故郷を捨てたのか」と大政を責めているようにもとれるので、今一つ説得力にかける。
もう一つの解釈は、「国を売る」を字義通り「売国」としたうえで、このフレーズを「反語」ととる。つまり、「なんで大政が売国行為をするだろうか? そんな男ではない」。これによって大政の愛国的忠誠心を強調するという解釈だが、歌謡曲なら、玄人受けする技巧をこらした反語表現などにせず、ストレートに大政を賛美したほうが伝わりやすいので、これもまた説得力にかける。
そこで筆者は、改めてこの歌を聴き直して、われながら画期的と思える「新解釈」をひらめいた。
すなわち「国を売る」を「日本(の茶)を海外に売り込む」と拡大解釈。大政が次郎長を支えて、静岡の茶をアメリカへ輸出するのに一肌脱いだという「読み」はいかがだろうか。文章法的に難があることは認めるが、従来の二つの解釈に比べれば、はるかにマシではないだろうか。
いや、文章法以前に、わが説にはれっきとしたファクトによる歴史的裏付けがある。
以下に論より証拠を示そう。
文明開化期のベンチャービジネスマン
清水次郎長の生まれは、江戸も末期の文政3年(1820)1月1日。往時、元旦生まれはとんでもない「偉人」か「ワル」になるかという言い伝えがあり、19歳の時に占い師から「お前は25歳までしか生きられない」と言われたものだから、次郎長少年すっかりワルのほうの成長に勢いがつき、任侠の世界でぐんぐんと頭角を表わす。
大政、小政に森の石松などの有力な子分衆を従えて、勢力範囲を愛知県の三河にまで広げ、東海道の半分以上の宿場を押さえる、文字通り海道一の大親分にのしあがる。
と、ここまでは小説・講談・歌・映画にもなってよく知られているが、じつは次郎長親分、明治の御一新で大変身。渡世人からすっぱり足を洗って様々な事業を起こすのである。
元旦生まれの良いほうの芽が、維新を境に遅まきながら伸び出したのかもしれない。さしずめ文明開化期のベンチャービジネスマンの先駆けである。
まずは、1976(明治9)年、57歳のとき、「これからは国際化の時代。英語を知らなきゃダメだ」と、近所の若者を集め、静岡学問所の若手講師を招いて英語塾を始める。
富士山麓を開拓、茶の輸出航路を開く
続いて次郎長は、富士山麓の茶畑開墾に挑む。これには、幕末・維新に活躍した剣豪にして政客であった山岡鉄舟との出会いが深く関係している。
山岡は、静岡で幕臣の勝海舟と官軍の将・西郷隆盛との会談をお膳立てして江戸無血開城を実現させ、江戸市民を焼き討ちから救ったことで知られるが、旧幕府軍の旗艦「咸臨丸」が修理のために清水に寄港したのが二人の機縁となった。新政府軍との戦闘で殺害された乗組員が放置されていることを知った次郎長が、小舟を出して遺体を収容して手厚く葬ったことに山岡はいたく感動、二人は生涯にわたって兄弟の契りを結ぶ。そこから生まれた事業が、明治維新で大量に失職した旧幕臣救済のための富士の裾野の開墾であった。
任侠の世界からビジネスへ転じた次郎長だが、義侠心は健在だったのである。
ほぼ時期を同じくして、太平洋へ張りだした静岡県中部の荒蕪地、牧之原台地でも二つの集団によって茶畑の開墾が進められていた。一つは、大政奉還で駿府(現在の静岡市)に隠居させられた第15代将軍慶喜に同行して職を失った家臣たち。もう一つの集団は「越すに越されぬ大井川」の渡渉制度が廃止、それによって失職した川越人足たちであった。
ここからが、文明開化期の異色起業家・次郎長の本領発揮だった。茶畑の開墾はスタートにすぎない。肝心なのは、富士山麓と牧之原台地の開墾によって増産された茶をどう売りさばくか、である。
そこで次郎長は、静岡の茶を海外へ運ぶために、清水港を大改修する必要があると廻船問屋たちを口説いて周り、自身も1880(明治13)年、61歳の時に海運会社「静隆社」を設立。茶の輸出商人と静岡の茶商と清水港の廻船問屋とを結びつけて、清水―横浜間に定期航路を誕生させる。これにより、清水港は世界に開かれた日本一の茶の輸出港となる。
この次郎長の活躍を陰で支えたのが生涯の腹心だった大政だが、次郎長の海運会社の設立を見届けると翌年に死去。「旅姿三人男」の2番の歌詞よろしく次郎長を支え続けて、「(日本という)国(のお茶)を(海外に)売る」のに“縁の下”から貢献したのだった。
「茶摘」は静岡茶の自負と自賛をうたった
こうして次郎長が礎をつくった「茶の輸出による日本の近代化の原資づくり」の功績は、じつは歌にもしっかりとうたいこまれている。その歌とは、
♪夏も近づく八十八夜~
の文部省唱歌「茶摘」(1912〈明治45〉年、作詞作曲不詳)である。
この歌が「静岡の茶が輸出増をもたらした証」と指摘するのは、日本茶のルーツを自負する京都府は宇治市の歴史資料館の坂本博司館長(当時)である。朝日新聞の連載「うたの旅人」(2010年6月5日)の取材にこたえて坂本館長がその根拠にあげるのは、同歌の以下の歌詞である。
♪あれに見えるは茶摘じゃないか あかねだすきに菅(すげ)の笠
坂本館長によれば、宇治では茶畑に黒い覆いをかけるため、「茶摘」にうたわれたこの風景は見られない。宇治では、「被覆栽培」といって光を遮ることで、露天栽培にはない鮮やかな緑色と独特の芳香と甘みのある茶を生み出す伝統の技を大昔から守ってきたからだ。
さらに坂本館長は、歌詞のこの箇所を「明治になって生産が突出した静岡の、それも輸出用の茶をつむ風景ではないか」と指摘、以下の歌詞を、静岡茶の「自負と自賛」と見る。
♪摘めよ摘め摘め摘まねばならぬ 摘まにゃ日本の茶にならぬ
「ちゃっきり節」がうたう茶葉収穫の技術革新
宇治といえば、江戸時代には、幕府が宇治から将軍家に新茶を献上するために行なった、大名行列よりも格式高い「お茶壺道中行列」で知られる。そんな伝統の茶所からすれば、「静岡の突出」は「新参者の気負い」でしかなかった。だが、それこそが次郎長の起業家精神をたぎらせ、茶による外貨獲得へとつながったのである。
次郎長のベンチャー精神は彼の死後も引き継がれ、それが静岡茶を世界に雄飛させることになる。先の文部省唱歌「茶摘」でうたわれた「あかねだすきに菅の笠」の「女性による手摘み」は「男性による鋏の切り取り」へと切り変わり、その技術革新による増産で、静岡茶はさらに日本の近代化に貢献する。
そのことが歌にもしっかり表現されている。その歌とは「ちゃっきり節」(作詞:北原白秋、作曲:町田嘉章、1927年)である。
「ちゃっきり節(茶切り節)」の冒頭は
♪唄はちゃっきり節 男は次郎長 花はたちばな 夏はたちばな 茶の香り
で始まり、30節まで延々と続くが、その節がかわるたびに「ちゃっきりちゃっりな」と囃子言葉が繰り返し入る。
先の朝日新聞の連載「うたの旅人」で、『茶の民俗学』の著作がある静岡産業大学の中村羊一郎教授(当時)は、この新民謡のタイトルと囃子言葉は茶葉を摘みとる鋏がたてる音からとられたといい、その背景には第一次世界大戦で工場の女性労働需要が急増、女性の日当が高くなり、それに代わって男が鋏で茶葉を刈るようになったからで、それが静岡茶の生産性を高めたと指摘している。
「ちゃっきりちゃっりな」は、日本の近代化をうながす「文明開化の音」だったのである。

著者:前田 和男(ノンフィクション作家)
1947年東京生まれ。日本読書新聞編集部勤務を経て、ノンフィクション作家、『のんびる』(パルシステム生協連合会)編集長。著書に『昭和街場のはやり歌』『続昭和街場のはやり唄』(ともに彩流社)。
*本連載は、季刊地域WEBにて毎月掲載されます。本誌では3回分を一部要約してお届けします。