本誌の前身『増刊現代農業』の創刊は1987年の「コメ輸入59氏の意見」、続く同年の「コメの逆襲」からだが、3号目は、88年の「反核 反原発 ふるさと便り」だった。そのころ、86年のチェルノブイリ事故による放射能汚染を受け、日本でも反原発運動が盛り上がっていた。
当時は、全国15地域に36基の原発が運転されていたが、30の地域が10年、20年と原発を拒否し続けていた。その30地域のすべては農村であり、漁村である。つまり、農家が農家として、漁師が漁師として、その地域で生きていくことをあきらめなければ、原発はできないことを訴えたのだった。現在、基数こそ54に増えたとはいえ、新規の原発立地は2地域しか増えていない。農家や漁師が30年、40年と、拒否し続けているからだ。
農家が農家として、漁師が漁師として生きていくことを全国民的に応援しなければ、反原発、脱原発運動も一時の盛り上がりに終わってしまう。だからこそ、TPPも阻止しなければならないのだ。[甲斐]

飯舘村での取材(8、14ページ)では、民宿「どうげ」に泊まった。女将の佐野ハツノさんは、若いころ、村の「若妻の翼」事業でヨーロッパを旅行し、農村でのホームステイを経験して、自分もこんな民宿をやりたいと決意した。58歳になった5年前、ついに夢を実現。農業委員会会長も務めた。飯舘村は女性のアイデアや意見を大事にする村でもある。
「特別なおもてなしではなく、山菜とりや野菜の収穫を楽しんでもらう、それぞれのお客さんの『田舎』でありたい」という佐野さんの願いはどうなるのか。浪費社会とは真逆の暮らしを志向し、電源開発三法交付金の恩恵も受けない村を襲ったあまりに理不尽な災厄。「どん底が見えない」なかでも、それぞれの夢をあきらめない飯舘村の方々の精神の気高さに、胸を打たれた。[阿部]

今号の情報ターミナル(120ページ)では、復興に取り組むさまざまな方の話を伺った。飼料米の自給を進めるトキワ養鶏の石澤組合長は、震災後の飼料不足で備蓄の大切さを痛感したという。食料、住まい、エネルギーなど、自給に向けた挑戦が被災各地で始まっている。職域にとらわれない人のつながりこそ復興の力だと感じた。[馬場]

被災した宮城県塩竈市の実家に帰り(48ページ)、久しぶりに親子4人、川の字になって寝た。気づくと隣の父が、私の手をぐっと握っている。津波をかぶった畳を何枚も運んだためだろうか、指の関節がひどく腫れていた。押さえていた涙が止めどなく流れ落ちる。「生きていてくれて、ありがとう」と、その大きな手を何度もさすった。[蜂屋]

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