『季刊地域』vol.57から始まった連載は、このウェブサイトで毎月更新します。誌面ではその3回分を1回にまとめて別連載として続きます。どちらもお楽しみください。
前田和男(ノンフィクション作家)
農的パワーのピークは昭和30年代
古来、「唄は世につれ世は唄につれ」と言われ、その時代と社会を知る手がかりとされてきた。この「歴史の公理」は農にも当てはまる。すなわち、唄によって農と世の関わりについて過去・現在だけでなく未来をも読み解くことができるのではないか。そこで「農と唄とのつれ具合」をつれづれなるままに描き記そうと思い立った。
初回は、「農業と農村」と「農をテーマにした歌謡曲」(以後「農のはやり唄」)はどのように「つれ」あったのか、その検証をこころみる。
なお「農のはやり唄」とは、農作業や農産物はもちろん、里山などの風景、祭祀や郷土食などの生活文化、さらには農村出身者の望郷の想いを歌ったものをさす。私は終戦直後に生まれた団塊世代だが、幼少期の街場のヒット曲の多くは「農のはやり唄」だった。しかしいつしか聞かれなくなったのはなぜなのだろう?
私の長年来の疑念を解くために、まずは「農のパワー」と「農のはやり唄」の対照年表をつくってみた(別掲参照)。するとわれながら興味深いことがわかった。戦前戦後を通じて日本の農がもっともパワフルだったのは、農業人口・農家戸数・作付面積の統計数値からみて、昭和30~40年(1955~1965)。この10年は「農のはやり唄」の大ヒットとぴたりと重なり合う。
昭和30年の春日八郎「別れの一本杉」から昭和40年の北島三郎「帰ろかな」まで、20曲を超える「農のはやり唄」が、当時人気のトップ歌手たちによってリリース。多くはタイトルだけで「農的情景」を歌ったそれだとわかる。
片やそれ以前の、敗戦直後の昭和20年からの10年で、農をテーマにしてヒットした歌謡曲は、♪みかんの花が咲いているの「みかんの花咲く丘」(川田正子、昭和22年)に♪コココココケッコの「ミネソタの卵売り」(暁テル子、昭和26年)と♪つがる娘は泣いたとさの「リンゴ追分」(美空ひばり、昭和27年)3曲だけ。それからすると、この同時多産度の高さは尋常ではない
農の悪しき出来事を予知していた現代版「わざうた」とは
では、昭和30~40年の農的パワーと「農のはやり唄」との相関をどうみるか?
ちなみに昭和30年の農業人口は2000万人をわずかに切り、当時の日本の総人口の2割を超えていた。おそらく農業は当時の日本ではいまだ最大かつ最強の「業界」であり、そこを舞台にヒット歌謡が量産されたのは当然だった―― そう思ったところで根本的疑念がわいた。
農的パワーは昭和40年を境に一気に弱まったわけではない、ゆっくり勢いを失っていく。であれば「農のはやり唄」は、その後も数を減らしながら生まれたはずである。それなのに、それは昭和40年の「帰ろかな」(北島三郎)を最後にぱたっと止まってしまい、「北国の春」(千昌夫、昭和52年)のヒットまで12年もの空白がある。
これはいったいなぜなのだろうか。
と、疑問と共に画期的なことがひらめいた。
昭和30~40年に農をテーマにした歌謡曲が多産したのは、その時期に農的パワーがピークに達したことの「結果」に見えるが、「因果」は逆ではないのか。
理由はこうである。
かつて上古の日本では、やがて起きる「社会的事件」を予知する「わざうた」(「童謡」とも「謡歌」とも表記される)が歌われたという。昭和30年代に始まる「農のはやり唄」の大ヒットは「現代のわざうた」の再来だったのではないか。
というのも、別掲の対象年表に示したように、この時期に「農のはやり唄」が大流行をみたのは、その後農の世界に起きる「悪しき出来事」を予知・警告していたと思えるからだ。
ひょっとしてこれは農とはやり唄の関係にとってとんでもない大発見かもしれない。
以下、同時代のわが「農のはやり唄」体験をまじえて検証してみよう。
「あゝ上野駅」は金の卵たちの応援歌にあらず
私は東京の生まれ育ちで、農をテーマにした歌謡曲が多産した昭和30~40年当時は小学生高学年から高校生であった。今から思えば、見たこともない農村の原風景を知った気になれたのは、これら同時期の「農のはやり唄」の歌詞のおかげだった。たとえば――
♪思い出すさえ ざんざら真ま菰こも(三橋美智也「おんな船頭唄」昭和30年)
♪姉サは馬コでお嫁に行った(島倉千代子「りんどう峠」昭和30年)
♪夕焼け空がマッカッカ とんびがくるりと輪をかいた(三橋美智也「夕焼けとんび」昭和33年)
♪わらにまみれてヨー 育てた栗毛(三橋美智也「達者でナ」昭和35年)
「同じ日本にこんなにも違う世界があるんだ」と、すでに現われつつあった都市と農村の落差を東京の中高生に自覚させたという意味では、これも「わざうた」効果の一つであったのかもしれない。
そのいっぽうで子供心に不思議だったのは、この時期の「農のはやり唄」のほとんどは暗くて辛くて悲しげなことだった。
♪あの娘と別れた悲しさに 山の懸かけ巣すも啼ないていた(春日八郎「別れの一本杉」昭和30年)
♪泣き泣き走った 小雨のホーム(三橋美智也「リンゴ村から」昭和31年)
♪なんでなんでなんでどうしてどうしてどうして 東京がそんなにいいんだろう(守屋浩「僕は泣いちっち」昭和34年)
と、いずれも農を生業とする生まれ故郷を出なければならない辛さを歌いあげる。
明るく前向きな歌はわずかで、その代表は井沢八郎の「あゝ上野駅」だったが、これも現実を裏切っていた。当時、春の就職シーズンになると、金の卵と呼ばれた、私よりも2、3歳年下で中学を卒業したばかりの少年少女たちが、上野駅の集団就職列車専用ホームに降り立つ映像がテレビに映し出され、きまって「あゝ上野駅」がBGMとして流される。しかし、手には大きなボストンバッグを持ち、中には柳ごおりを大切そうに抱えている彼らは仲間と会話を交わすでもなく、ただただ押し黙り、不安と悲しみが入り混じった表情をしていた。私の目には、「♪胸にゃでっかい夢がある」ようにはどうしても見えなかった。
折しも「農のはやり唄」が多産されるさなかの昭和36年(1961)は、農業基本法が施行され、日本の農は大きな曲がり角を曲がりつつあった。農業に工業並みの生産性を求め、構造改革という名の近代化と大規模化をはかる。そして農村であまった労働力を都市へ呼び寄せて工業へ投入し、さらなる高度成長をめざす。いっぽう農村では、離農によって生産性に合わない土地は耕作放棄地となり農の原風景は失われていく。その行き着く先に何が待ち受けているのか、東京の中高生だった私も、そして多くの国民も気づいていなかった。
気づいていたのは、往時の「農のはやり唄」だけで、日本の農の未来が危ういことを暗く辛く悲しげな詞と曲で予知・警告していたのだった。
「北国の春」を演出した出稼ぎスタイル
それから12年がたった昭和52年(1977)、農をテーマにした歌謡曲が久方ぶりに国民的愛唱歌となる。千昌夫の「北国の春」(作詞・いではく、作曲・遠藤実)である。
♪季節が都会ではわからないだろと/届いたおふくろの小さな包み/あの故郷へ帰ろかな帰ろかな
この歌の国民的なヒットは、ある演出効果のおかげといわれている。
きらびやかな衣装が演歌歌手の常道だが、千昌夫は、着古した外套にゴムの長靴、首には手ぬぐいを巻き、使いこんだトランクを下げ、背中に風呂敷包みを背負ってテレビに出演、この「出稼ぎスタイル」が大いに受けた。千昌夫のアイデアといわれているが、私には、「農のはやり唄」が千にそれをひらめかせたように思えてならない。
昭和30年代に同時多産した「農のはやり唄」は「農の危機到来」を予言、それへの対処を見守るべく10年余り鳴りを潜めていたが、業を煮やしたのではないか。日本の農は崩壊寸前なのに、まだ「帰ろかな」と迷っているのかと。農村から増え続ける離農者が東京を豊かにし、生まれ故郷を貧しくしている。この皮肉な現実を「これでいいのか!」と千昌夫の出稼ぎスタイルによってつきつけようとしたのではなかったか。
しかし、この演出は奏功して「北国の春」を国民的ミリオンセラーに押し上げはしたが、当の国民のほとんどは、この歌に「農の危機」を告げる「わざうた」が内包されていることに気づくことはなく、滅びかけている農を取り戻すために帰郷する動きは起こらなかった。
限界集落を予知した「俺ら東京さ行ぐだ」
さらに7年がたった昭和59年(1984)、「農のはやり唄」は捨て身の奇策に出る。東北の農村出身の歌手による、奇妙奇天烈な詞の曲が大ヒットする。
♪俺らこんな村いやだ/東京へ出るだ/東京へ出だなら/銭(ゼニコア)貯めで/東京で牛(ベコ)飼うだ
吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」(作詞作曲・吉幾三)である。この歌は人気歌謡番組「ザ・ベストテン」で年間21位にランクインする話題曲となるが、多くの国民は、経済成長のお荷物になっている農の「自虐ギャグ」と受け止め、笑い飛ばしただけだった。
しかし、この歌は、「限界集落」の出現を、高知大学の大野晃教授が指摘して国民的話題となる6年以上も前に、こんな歌詞で予言していたのである。
♪若者ア俺一人 婆さんと爺さんと数珠を握って空拝む
「俺ら東京さ行ぐだ」の予言能力や恐るべしだが、またしてもそれに気づいて「わが事」として振り返る国民はいなかった。
「帰らんちゃよか」の真のメッセージとは
さて、ここまで検証してきたように、昭和30年代に生まれた「農のはやり唄」たちは「現代のわざうた」として、「農をめぐる悪しき出来事」を予言し警告をしてきた。それに対して、私を含めて多くの国民は耳を傾けてこなかった。いや、より正確にいうと、無視するか、時には嘲笑してきた。
そのうち昭和が終わり、20世紀も終わり、新しい世紀が始まっても、その状況は変わらなかった。そのことに「現代のわざうた」である「農のはやり唄」たちは我慢の限界に達したのだろう、7年ぶりに農をテーマにした話題曲を世に問うた。「帰らんちゃよか」(作詞作曲・関島秀樹)である。
1996年にばってん荒川がリリースするが、2004年に人気上昇中の島津亜矢がカバーしてブレイク。2015年に出場した紅白歌合戦でも熱唱して、ロングランヒットとなった。
一般には、以下の歌詞が、子を思う親心のうるわしい発露として共感を呼んでいるようだ。
♪おれたちゃ先に逝くとやけん おまえの思うたとおりに生きたらよか
だが、「農のはやり唄」からすると、都会に憧れて出て行った子供たちに、「お前の田舎は崩壊寸前なので帰ってこなくていい」の最後通牒である。しかし、この裏には「ぎりぎり間に合うから田舎を立て直しに帰って来てほしい」との逆説的願いが隠されている。
一方で、「このままでは日本には『帰るべきふるさと』がなくなる」のも世の趨勢である。
ちなみに2020年の農業人口(農業従事者数)は249万人で、最盛期の昭和30年の1割余りに激減。今や日本の人口の2%にすぎない。生物にたとえればもはや絶滅危惧種だ。
農が発する唄に、しかと耳をそばだて向き合わないと、農は消え日本は土台を失うだろう。これまでのように農が発する唄たちを無視したり嘲笑する時間はもう残されていない。
著者:前田 和男(ノンフィクション作家)
1947年東京生まれ。日本読書新聞編集部勤務を経て、ノンフィクション作家、『のんびる』(パルシステム生協連合会)編集長。近著に『昭和 街場のはやり歌』(彩流社)。
*本連載は、季刊地域WEBにて毎月掲載されます。本誌では3回分を一部要約してお届けします。