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また「地方消滅論」ですか連載

高知

【また「地方消滅論」ですか 第4回】「消滅しない地域」の条件――日本の端っこから始まっている「縁辺革命」

田園回帰1%戦略』(農文協)の著者・藤山浩さんは、一昔前なら「あんな端っこの不便なところに誰も新たには住みはしない」と思っていた山間部や離島などに、若年層を増やし始めている集落が結構ある(縁辺革命)ことに注目してきました。4月24日公表の新たな「増田レポート」では、こうした動きをどう評価するのでしょうか(『季刊地域』vol.28(2017年冬号)掲載記事より)。

藤山浩(島根県中山間地域研究センター)

「終わり」と「始まり」が交差する2010年代

 時代は二重の波動でできている。小さく短い波、そして大きく長い波。今現在が下向きになっているからといって、長い目で見ても下り坂とは限らない。例えば、幕末の「安政の大獄」(1858~1859年)が吹き荒れたとき、いったい何人が10年後の討幕を見通したことだろう。だが、それはやはり本格的な春の到来を前にした「寒の戻り」であったのだ。確かに、夜明け前こそ、一番暗く寒さも厳しい場合も多いのだが。

 この2010年代は、一つの時代が終わり、新たな時代が始まった時期として、後世に記憶されていくのではないだろうか。そのような大きな時代の転換を、まずは10年前と現在を結んで考えてみたい。

「限界集落」は消滅したのか?

 「限界集落」という言葉が全国的に話題になったのは、ちょうど10年前、2006年頃だ。65歳以上の高齢者が半数以上を占める集落は、存続が危ぶまれる「限界集落」といっせいに呼ばれるようになった。当時は、そうした集落が明日にでも次々と消滅してしまうような論調が目立っていた。

 あれから10年、実際は、どうなっているのだろうか。2016年9月、その事実を確かめることのできる全国調査の結果が公表された。「平成27年度 過疎地域等条件不利地域における集落の現況把握調査(国土交通省、総務省)」である。

 まず、集落消滅の実態については、前回調査(平成22年=2010年)対象となった6万4805集落の存続状況を確かめたところ、無居住化した集落は、全体の0.3%に当たる174集落しかない。そのなかで27集落は東日本大震災による津波被災地の集落である。また、前回調査時に「10年以内に無住化の可能性がある」と予測されていた452集落中、この5年間で実際に無住化したのは41集落(9.1%)にすぎない。つまり、集落は、10年前に思われていた以上に、しっかり存続しているのである。

 今回の調査では、初めて各集落への転入状況も調べている。2010年4月以降に転入者があった集落は全体の40.0%あり、転入状況が「わからない」(*1)集落を除くと、その割合は82.6%にもなる。また、子育て世帯が転入した集落も全体の24.9%あり、これも不明な集落を除くと、その割合は61.1%に達する。集落への新しい担い手の定住が幅広く発生していることがうかがえる(図1)。

*1 該当市町村の転入者について市町村担当者の知りうる範囲で回答を求めたため、「わからない」という回答が全体の約半数を占めた。

 やはり、「限界集落」が続々と消滅するかのような当時のパニック的な予想は、近視眼的だったといわざるを得ない。

縁辺の集落から消えていく?

 当時の「限界集落」にかかわっては、都市部から遠く離れた縁辺性の高い集落から消えていくような議論もよくされていた。そうした集落を守ることの無駄を説き、故意かあるいは誤解からか「コンパクトシティ論」を誤用し、縁辺集落の「切り捨て」を主張する人もまだまだ多い。本当に、縁辺集落は、消えゆく存在なのであろうか。

 島根県中山間地域の集落について、人口動態と2次拠点(*2)への到達時間の関係をみると、長年の若年層流出の積み重ねが響きやすい集落全体の高齢化率や人口減少率は、縁辺性の高い集落ほど大きくなる傾向がうかがえる。しかしながら、より若い世代に着目し、29歳以下人口の増減率をみると、地理的な縁辺性はほとんど影響していない。

*2 総合病院や高校、比較的大規模なスーパーマーケットなどの広域的な拠点が立地している地点。

 今までの「常識」でいえば、こうした若年層の流入は都市近郊が中心であり、流出は山間・離島部に集中していた。しかし、今やそうした集落の立地場所による偏りはほとんど消えている。実際に、全県中山間地域の全集落について散布グラフを描いてみても、縁辺性と29歳以下増減率との関係は、まったく「フラット化」している。つまり、一昔前まで、「あんな端っこの不便なところに誰も新たには住みはしない」と思っていた山間部や離島などでも、若年層を増やし始めている集落が結構あるということなのである。

上がり始めた「社会増」市町村の烽火のろし

 以上述べてきた2010年代における集落の存続傾向や縁辺集落への若年層定住は、私が『図解でわかる 田園回帰1%戦略 「小さな拠点」をつくる』(農文協)で紹介した「田舎の田舎」への次世代定住の動きと符合する。

 私は、2016年、北海道から九州まですべての地方ブロックを回ってみた。そこで改めて「発見」そして「実感」したことは、山間や離島の小さな町村が、次々と「社会増」(*3)を実現していることだ。

*3 ある地域の出生数が死亡数を上回る自然増に対して、人口流入数が流出数を上回ることを社会増という。

▼ワーキングホリデイの西米良村、再生可能な林業の下川町

 例えば1月に訪れた宮崎では、九州山地の奥深い山村、西米良村(人口1206人)が、社会増はもちろんのこと、長期的な人口安定や増加基調を実現していた。これは、本当にすごいことだ。同村は、ワーキングホリデイの村として有名だ。子連れ夫婦の定住が大きな成果を上げている。

 4月には、NHK四国の共同特別番組「Discover四国」の第1弾として、「田舎で見つけた希望の芽」が放送された。私も企画段階から参画し出演した同番組では、四国の山間部において近年子供が増えた地区がかなり目立ってきていることが注目を集めた。

 8月に訪れた北海道の下川町(人口3354人)も、2012年からは社会増に転じている。スキージャンプの「伝説《レジェンド》」として知られる葛西紀明選手を生んだ町として知られているが、広大な町有林を60年周期で完全に再生可能な形で活用し始めている素晴らしい林業の町だ。私は、「永遠のグリーンカレンダー」を手に入れた町と呼んでいる。

 町の主要施設は、もはや石油で暖房や給湯をしていない。自前のバイオマス資源を利用したチップボイラーが、役場も病院も小学校も福祉施設もそしてもちろん温泉も、熱供給している。周辺の集落(一の橋地区)でも、熱供給システムや牧場でのメタン発酵のコジェネプラントが活躍し始めている。

▼地道な地域づくりが実を結んだ梼原ゆすはら

 9月には、各方面から「梼原ゆすはらはすごい」と評判の高知県梼原町(人口3664人)に行ってみた。高知県北西部、愛媛県境の山間部にあり、四万十川の源流域に位置している。ここは、少し詳しく紹介してみよう。

 まずナビの通りに梼原町役場に行きついたにもかかわらず、そのあまりに素敵な木造のデザインに、それが町役場と気づかないほどだった。この役場は、今をときめく隈研吾氏の設計だ。隈氏が今ほど有名でないときから、町は一緒になってホテルをはじめとする素晴らしい作品群を生み出してきた。

 建物だけでなく、中心の街路も無電柱化で美しく整備され、包丁の工房やおいしいコーヒー店など、キラリと光る生活の文化が息づいている。橋さえも木造で、なかには屋根付きのものまである。

 梼原町といえば、自然エネルギーの町としても有名で、木質ペレットや風力、水力、太陽光、地中熱などを組み合わせ、エネルギー自給率100%を目指している。

 また、地域づくりにおいても、町内56集落をまとめた六つの区により、住民による主体的なコミュニティ活動が行なわれている。高知版「小さな拠点」である分野横断型の「集落活動センター」もすでに四つ立ち上げられている。

 中学校と一体化している小学校(梼原学園)には、幅5mの広々とした木の廊下が走り、椅子や机も町内産の木材でつくられている。

 同様に、梼原病院も保健福祉センターとの一体型施設となっており、町内随所につながり・まとまりがよい仕組みが見られる。健康診断率も高知県トップで、医療費や介護費用を抑えているのだ。

 そのうえ、地元の方々との夜の懇親会(高知では「おきゃく」と呼んでいる)までもすこぶる楽しい。また、食事もほぼ完全な「地産地消」のせいか、お酒をたくさん飲んでもなぜか悪酔いしない。

梼原町の農家民宿での楽しい「おきゃく(懇親会)」

 こんな梼原町の人口は、2012年度から社会増となっている。2005年から2010年にかけての人口動態では、まだほぼ全世代が流出超過となっていた。しかし、今や、多くの世代で流入が超過と逆転している(図2)。この2010年代、梼原町は、諦めずに地道な地域づくりを続けた成果を手にし始めている。

見えてきた地域持続の条件―新しい文明の始まりのなかで

 この半世紀の間、中山間地域の多くの市町村は、とめどない過疎の進行にあえいできた。過疎とは、若年層を中心とした人口流出、すなわち「社会減」の進行を意味する。その過疎に「終止符」を打つ「社会増」を実現する自治体が、今まで条件不利とされてきた山間部・離島の小規模自治体の中から生まれている歴史的意義は大きい。「過疎」という言葉が生まれたとされる島根県においても、全国的な田園回帰を先取りするなか、邑南おおなん町・海士町・知夫村といった山間部・離島の町村が近年継続して「社会増」を達成している。

 私は、この「端っこ」から生まれつつある「小さな波」が、やがて持続可能な地域社会に向けた大きな時代のうねりにつながる可能性を確信している。そうした2010年代という時代の転換期において見えてきた、長続きする地域の条件とは何であろうか? 全国の地域現場を歩いた実感と具体的なデータ分析からは、次の三つが重要と考える。

 第一は、「暮らしの意志」をもっていることである。

 現在、いち早く社会増を実現した自治体を実際歩いてみると「こんな暮らしを自分たちはしたい・できる!」という意志を地域全体から感じる。自分たちの暮らしを主体的に「選び取る」地域は、自分の人生をきちんと「選び取り」たいという人々から「選ばれる」のである。

 どこでも同じような疎遠な人付き合いや食べ物、子育てといった暮らしぶりであれば、無理にそこを選び住むことはない。便利さや稼ぎからいえば、やはり東京に住もうかという話になる。また、その地域ならではの自然の美しさや厳しさに応じた多様な暮らしが成り立ってこそ、国土全体としての多様性に裏打ちされた持続可能性が実現する。

 第二は、従来の「大規模・集中型文明」に期待していないことである。

 これまでの過疎対策の主流は、大規模・集中型の経済的優位を認めたうえで、都市との格差是正や利益還流を求めるものであった。しかし、それではいつまで経っても都市に後ろからついていく存在にしかならない。しかも、都市のトップランナーとみなされる東京の特別区では、人口推計をしてみると、30年後には、1km四方に高齢者だけで1万人前後に達するような地域が続出する。これは、小学校の校庭(100m四方)にお年寄りだけで100人が暮らすことを意味する。介護や医療の限界以前に、どのような暮らしが成り立つかが見えてこない。

 高度経済成長期以来、私たちが営々と積み重ねた大規模・集中型の文明や国土は、このような絶対的限界に直面しようとしている。であれば、生態系と同じく、多様で長続きする「小規模・分散型文明」へと舵を切るときがきている。

 第三は、世代を超えた営みができる住民の存在である。

 私たちの地域は、現在の世代だけでなく、死んだ後の世代のことも考えてがんばってきた幾代もの人々の努力で、今の姿になっている。昨今みんな開き直って「今だけ、自分だけ、お金だけ」を追い求める風潮があるが、それではよい地域となり得ないだろう。

 目先の利益を超えて高い志を込めた人々の記憶は、地元の中で世代を超えて伝わっていく。それぞれの地域がだんだんとよくなるとすれば、それは、この世代を超えた記憶のリレーがつながっているからにほかならない。最近、田園回帰した人々が驚くことは、田舎の地域社会では、自分だけでなく現在の仲間や将来の世代を考えて動く住民がまだまだいるという事実なのだ。

 未来を語るとき、私たちは若者にだけ目を向けがちだ。しかし、まずは、今の中高年が自分の代だけの欲得や逃げ切りを図らないこと、次の世代の記憶に残り得る志を示すことが、今の時代、今の地域に一番求められているのではないだろうか。

 一人ひとりの人生は、「小さな波」しか創り出せないかもしれない。しかし、地元の中でその記憶が紡がれていけば、何代にも及ぶ「大きな波」へとつながっていくはずだ。
『季刊地域』2017年冬号「「消滅しない地域」の条件」より)

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藤山浩 編著
中山間地域など人口減少に直面している地域では、住民の生活を支える基盤が失われ、人口減少に拍車がかかっている。こうしたなか、複数の集落を含む基礎的生活圏において、住民が必要な生活サービスを受けられるような施設や機能を集約し、確保する取り組みが求められている。この小さな拠点づくりは国もバックアップしているが、うまくいっていない地域も少なくない。本書は小さな拠点づくりの国の政策づくりにも関与した著者が、住民主体で小さな拠点づくりを進める手法とポイントを、豊富な具体例とともにわかりやすく解説している。
『季刊地域』編集部 編
人口減少対策はいまや全国の自治体や地域に共通する課題となっている。I・Uターンを多く迎え入れて社会増を実現した地域、他地域に住む地元出身者との関係を強めて活力を維持している地域など、住民自身が動き出した市町村は何が変わったのか。自治体の政策とともに集落・自治会・公民館まで分け入って現場の動きを取材。転換点となる戦略を4つのポイントから掘り起こす。
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