『季刊地域』vol.57から始まった連載は、このウェブサイトで毎月更新します。誌面ではその3回分を1回にまとめて別連載として続きます。どちらもお楽しみください。
前田和男(ノンフィクション作家)
小国主義の基は田んぼの生き物との共生
引き続き、農の営みに深く関わる生き物たちをモチーフにした唄を取り上げる。
トップバッターはカエルだったが、2番打者には何を指名しようかと思案していると、本連載に多くのヒントを与えてくれた畏友の宇根豊がたまたま上京、東大駒場キャンパスでレクチャーをするとの案内をもらったので、一聴衆として参加した。
主催は東大総合文化研究科の伊達聖伸教授を代表とする研究プロジェクト「『小国』の経験から普遍を問い直す」。かくも超アカデミックなセミナーに、農本主義百姓を自認する在野の宇根の言説がいったいどれほど届くのだろうかと興味を覚えるいっぽうで、およそ「農と唄」という本稿の軟派なテーマとは関わりはないだろうと思っていた。
ところがそれはとんだ早とちりだった。
それを思い知らされたのは、西欧発の「大国」主義に対抗するモデルとして「小国」主義を展望するとしたら、その大元に農本主義と田んぼの生き物たちとの共生を据えるべきではないかと宇根が持論を展開、前回も紹介したが、宇根が減農薬運動の中で編み出した「田んぼの生き物調査」のための下敷きを配布、こう説明したときだった。
「田んぼではカエルの6~7割、赤トンボの9割9分が生まれる。これは、私たち日本人がごはん3杯(稲9株)を食べることで、カエルと赤トンボをそれぞれ1匹ずつ育てている計算になる」
すると、私以外は院生以上のアカデミシャンである参加者たちは、一様に下敷きをためつすがめつして虚をつかれた表情を見せた。おそらく、カエルやトンボから天下国家のありようを語る立論に初めて出くわしてカルチャーショックを受けたのだろう。レクチャー終了後も宇根への質問が相次いだ。
いささか前置きが長くなったが、そんな「事件」に立ち会ったことからカエルの唄の次なるテーマはトンボにしようと思い至ったのだった。じつはこのセミナーは、もう一つ重要な気づきを与えてくれたのだが、それについては本稿の最後に記すので、しばしお待ちいただきたい。
トンボの唄のパワーは数ではなく中身!?
しかし調べ始めると、トンボは農の唄のモチーフという点では、カエルほど量的には多くはない。
ちなみに、前回の「カエルの唄」で、老若男女問わず日本人なら誰もが聞き覚えのあるのは、
♪きゃある(カエル)が鳴くんで 雨ずらよ の「ちゃっきり節」(作詞:北原白秋、作曲:町田嘉章)1927(昭和2)年から、♪根性根性ど根性~ の「ド根性カエル」(作詞:東京ムービー企画部、作曲・編曲:広瀬健次郎)1972(昭和47)年
までの9曲を即座に挙げることができた。
ところが、トンボをモチーフにした唄となると、
♪夕焼け小焼けの赤とんぼ の「赤とんぼ」(作詞・三木露風、作曲・山田耕筰、童謡)1927(昭和2)年、♪とんぼのめがねは みずいろめがね の「とんぼのめがね」(作詞・額賀誠志、作曲・平井康三郎、童謡)1948(昭和23)年、♪ああ しあわせのとんぼよ どこへ の「とんぼ」(作詞作曲・長渕剛、長渕主演の同名テレビドラマの主題歌)1988(昭和63)年
の3曲がやっと浮かんだだけだった。
たった3曲で果たして検証に耐えられるだろうか。
と、「数じゃなかと、中味が大切たい」との声が宇根から聞こえた気がしたので、なるほどそうかもしれぬと考え直し、「赤とんぼ」から検証を始めることにする。
誤読され続ける「赤とんぼ」
まずは歌詞を掲げる。
♪夕焼小焼のあかとんぼ
負われて見たのはいつの日か
♪山の畑の桑の実を
小籠につんだはまぼろしか
♪十五で姐やは嫁にゆき
お里のたよりもたえはてた
♪夕やけ小やけの赤とんぼ
とまっているよ竿の先
ついで、この唄が生まれるまでの経緯だが、作詞は三木露風(1889~1964)。1921(大正10)年秋の夕暮れ時、すでに詩壇の新星となっていた露風が文学講師として招聘された北海道は上磯町(現・北斗市)で、群れ飛ぶ赤トンボを目にして、ふと兵庫県龍野町(現・たつの市)で過ごした幼少年時代を思い出して作詞。同年、雑誌に発表されて話題になり、その7年後の1927(昭和2)年に山田耕筰によって曲がつけられ、今や日本の童謡の定番となっている。
「赤とんぼ」は、元号が変わる1989年のNHKによる「あなたが選ぶ日本のうた・ふるさとのうた」でも、また2003年に日本童謡の会が実施した「好きな童謡」全国アンケートでも1位になっていることから、おそらく今なお日本の老若男女に最も知られている童謡であることは間違いないだろう。しかし、誰でも知っているにもかかわらず「赤とんぼ」ほど「誤読」されている唄も珍しい。
その一つは、1番の「♪負われて見たのはいつの日か」の「負われて」を「追われて」とする誤読である。文脈的には無理があるが、これはある年代までならトンボを追いかけた幼少年期の体験的記憶によるものか、はたまた加賀千代女の「とんぼつり今日はどこまでいったやら」からの連想か。
この誤読は大人になるまでに音楽の授業などで正されるが、その先には、おそらく多くの日本人は気づいていない次なる誤読が待ち受けている。
それは「幼少年期の作詞者を背負っているのは誰か?」である。今や戦後生まれが85%となった日本人のほとんどには、4番に出てくる「姐や」は赤子の「姉」と誤読されているのではないか。「姐や」とは、戦後しばらくまで多くは農村部で見られた、子守奉公に出される貧農の少女たちである。
誤読は誤読を呼ぶ。「姐や」に続く「お里のたより」は、姐やが故郷から作詞者に送ってよこした手紙と解釈されているようだが、こうは考えられないだろうか。作詞者の三木露風の母親は露風が幼児期に離縁されている。「お里のたより」とは、母親が姐やの名を借りて別れたわが子・露風に送ったものではなかったか。
昭和恐慌とは「昭和農業恐慌」
と、訳知り顔に記したが、ここまでは、あれこれ資料にあたった「検証」であり、ここからは筆者の妄想の力を借りた意図的な〝誤読〟をお許しいただきたい。
「赤とんぼ」がリリースされた1927(昭和2)年に昭和恐慌が勃発。これにより最も大きな打撃を受けたのは農村であった。往時の日本の農業は輸出用の生糸と国内の主食の米の二本柱で成り立っていた。2年後の1929(昭和4)年、アメリカで世界恐慌が起きると、生糸の対米輸出が激減。ほぼ時期を同じくして日本農業史上初の「豊作飢饉」によって米価が下落。そして2年後の1931(昭和6)年には、一転して東北・北海道地域を空前の冷害が襲い、大量の欠食児童や女子の身売りが横行、小作争議が続発する。
中学高校の歴史の授業で習った「昭和恐慌」とは、正しくは「昭和農業農村恐慌」と記すべきであり、その歴史的文脈からすると、この童謡は、もはや姐やには「十五で嫁に行く」選択肢はなく、苦界への身売りが待ち受けていることを予兆していたかもしれない。そう考えると、童謡なのに、明るいどころか物悲しい理由がなんとなくわかってくるではないか。
「赤とんぼ」は童謡ではなく「わざうた」だった!
さらなる妄想的連想がわが胸中にわいた。そこへと導いてくれたのは、冒頭で紹介した宇根豊がチューターに招かれたセミナーのテーマ「小国論」である。
思えば「赤とんぼ」のリリースと流行、昭和恐慌下の農村の壊滅的疲弊、そして小国から大国への夢を追った戦争への道――この三者は見事に重なっている。
それを象徴する「赤とんぼ」の物悲しいエピソードがある。
「赤とんぼ」が童謡としてリリースされてから6年後、帝国海軍に新型訓練機が誕生する。制式名称は、皇紀2593(1933年)の末尾2桁を冠した「九三式中間練習機」だが、勇猛果敢のシンボルである迷彩色の戦闘機とは区別して機体が橙色に塗られていたことから、「赤とんぼ」の愛称で呼ばれた。
しかし戦況が悪化、1944(昭和19)年に特攻作戦が採用されるや、実戦機が失われるなかで、そもそも戦闘には不向きな複葉練習機「赤とんぼ」にも特攻出撃命令が下る。一群の「赤とんぼ」は沖縄は宮古島より出撃、不時着など2度の失敗をへて3度目の出撃で2機が米艦隊に遭遇。駆逐艦1隻を撃沈、1隻を大破、2隻に損傷を与え、米側の戦死者75人と負傷者129人という「大戦果」を挙げた。
日本がポツダム宣言を受諾するわずか2週間前であった。
零戦などの精鋭飛行隊には「隼」や「荒鷲」などの勇ましい名がつけられたが、「赤とんぼ」という軟弱な愛称の飛行機が、小国が目指した大国への道が夢と潰えた掉尾を飾ることになったのは、何とも皮肉なことだった。
本連載では、しばしば「わざうた」を引き合いに出してきた。すなわち、かつて上古の日本では、やがて起きる「社会的事件」を予知する「わざうた」(「童謡」とも「謡歌」とも表記される)が歌われたと。
童謡として今も多くの日本人に口ずさまれる「赤とんぼ」だが、じつはこの唄は童謡ではなく「わざうた」だったのである。
(この項つづく)
著者:前田 和男(ノンフィクション作家)
1947年東京生まれ。日本読書新聞編集部勤務を経て、ノンフィクション作家、『のんびる』(パルシステム生協連合会)編集長。著書に『昭和街場のはやり歌』『続昭和街場のはやり唄』(ともに彩流社)。
*本連載は、季刊地域WEBにて毎月掲載されます。本誌では3回分を一部要約してお届けします。