『季刊地域』vol.57から始まった連載は、このウェブサイトで毎月更新します。誌面ではその3回分を1回にまとめて別連載として続きます。どちらもお楽しみください。
前田和男(ノンフィクション作家)
庶民の果物になったのは江戸中期から
日本人にとってもっとも身近な果物といえばミカンとリンゴが双璧だが、ミカンは遅くとも室町・戦国時代には食されていたというから、つきあいの古さではミカンに数百年もの長がある。明治の脱亜入欧の流れに乗ってアメリカからもたらされたリンゴははるかに及ばない。
今回からは、そんなミカンとの長~いつきあいにまつわるエピソードについて、ミカンをテーマにした唄を手がかりに3回にわたってひもといてみよう。
ただし、つきあいが古いとはいっても、上流公家・三条西実隆の日記に「享禄2年(1529)に土産にした」、あるいは一向宗のリーダーであった顕如の記述に「天正8年(1580)にライバルの織田信長にミカン5箱をおくった」とあることからも、しばらくの間は貴紳たちの贅沢嗜好品であった。
その贅沢嗜好品が庶民の口にものぼるようになるのは、江戸時代も中期になってからと思われる。『紀州蜜柑伝来記』によれば、紀州藩から江戸へもちこまれたミカンが元禄11年(1698)には25万~33万籠、正徳2年(1712)には35万~50万籠とある。また、地元紀州ミカンの大豊作による価格暴落と江戸のミカン払底のギャップを利用、江戸へ向けてミカン船を仕立てて豪商に成り上がったとされる紀伊国屋文左衛門の伝説的エピソードも、江戸中期の元禄年間の話である。

江戸時代の紀州ミカンは今と別物
ここで注目すべきは、当初江戸ではミカンの多くは近距離の伊豆・駿河産だったが、やがて海路ではるばる運ばれてくる紀州のミカンが断トツの人気を誇るようになることだ。
それをもって「紀州ミカン」はミカンの代名詞となり、現在に至っている。
しかし、辻井達一『続・日本の樹木』(平凡社新書、2006年)によると、紀州ミカンといっても、江戸時代までのそれと現在のそれとでは、生まれも育ちも中身も「まったくの別物」だという。
ちなみに江戸時代までの紀州ミカンは、分類学的には「小ミカン」と呼ばれる。各房には種があり、甘さと酸っぱさを兼ね備えた食味で、直径は5cm程度の小ぶりである。生まれは紀州ではなく中国。古来、中国との交易港であった現在の熊本県八代に中国浙江省から伝わり、15~16世紀頃に紀州有田にもたらされたとされる。
かたや現在の紀州ミカンは、分類学的には「温州(うんしゅう)ミカン」と呼ばれるが、生まれは中国ではなく日本は鹿児島県長島。九州では古くは「仲島ミカン」と呼ばれていたが、江戸時代の後半から「温州ミカン」の名で喧伝されるようになり、日本各地に広まった。現代でいうブランド戦略の成果だったと思われる。それまでの「小ミカン」とは違って、甘みが強く、なんといっても種がなくて食べやすい。
このように両者はまったくの別物である。
謎解きの手がかりは童謡「毬と殿様」
それなのに紀州ミカンは、江戸時代からいまに至るも一貫してミカンの王者であり代名詞であり続けている。それには、いかなる背景と経緯があったのか? そもそも、いったい、いつ、両者のあいだに「選手交代」が起きたのだろうか?
この300年にわたるミカンの流転をあれこれ調べているうちに、それを解き明かす手がかりとなる唄に行きあたった。 その唄とは――
♪てんてんてんまり、てんてまり~~
で始まる「毬と殿様」(作詞・西條八十、作曲・中山晋平、1929〈昭和4〉年)である。
誕生の経緯について作詞の西條自身はこう述べている。
「雑誌社から正月号にふさわしい子供の謡を、と頼んできたので、子供の頃の正月の遊びを謡にしようと考えた。女の子は毬つきや羽子つきをして遊ぶ。家の中では双六をする。双六はたいてい東海道五十三次の絵が描いてあり、勝って貰えるご褒美はみかんだ。毬つきや羽子つきのご褒美もみかんだ。みかんは丸くて毬のようで紀州が本場だ。そうした連想からこの童謡を書いた」(合田道人『案外、知らずに歌っていた童謡の謎』祥伝社、2004年、森一也の著作からの引用)
正月から毬が紀州ミカンとなる物語を思いつく連想力はさすが当代一の詩人である。しかし、この童謡には2系統の紀州ミカンの流転の物語が隠されていることに、ミカンについて深い知見があるはずもない当の西條は気づいていない。ときに唄は、作者の思惑や企図を越えたメッセージを問わず語りに語ることがある。「毬と殿様」はその典型かもしれない。
では、「毬と殿様」を手がかりに、紀州ミカンの300年にわたる流転の物語の謎解きにかかるとしよう。


手毬は紀州の温州ミカンになった?
まずは、紀州ミカンに生まれも育ちも食味も違う2系統がなぜあるのかだが、それは歌詞の流れから、こう読み解くことができる。すなわち、子供たちの遊び用具だった手毬が、何かのはずみで紀州の殿様のかごに飛び込むと、殿様にせがむ。
♪もしもし紀州のお殿さま、あなたのお国のみかん山、わたしに見させてくださいな
すると殿様は手毬を国元に連れていき、ミカン山を見せてたところ、やがて手毬は
♪赤いみかんになったげな、なったげな
つまり、手毬が見せてもらった紀州の山のミカンとは、従来の「種ありの甘酸っぱい小ミカン」で、「てんてんてん毬」とは、紀州の外からもたらされた「種なしの甘い温州ミカン」である――引用した歌詞のくだりが、その経緯をはからずも、言い当てているではないか。
と、ここで次なる謎がわく。
各種史料によると、江戸時代にはすでに「温州ミカン」は原産地の鹿児島から紀州に伝わっていた。甘く、おいしく、皮がむきやすく、種がなくて、食べやすい。にもかかわらず、なぜの紀州では小ミカンから温州ミカンへの歴史的な「選手交代」が起きなかったのか?
原因は、この童謡で「手毬」と並ぶ主役の「殿様」にある。殿様の最大関心事は「家の存続」。殿様が「種なし」だとお取りつぶし(無嗣断絶)となるからだ。徳川時代にはしばしばこれが起き、その憂き目にあった大名は、1602年の小早川秀秋(備前岡山51万石)に始まって、幕末までじつに92に上る(Wikipedia「改易」による)。したがって、いくら甘くて食べやすくても「種なしミカン」は不吉なため、育成・販売は固くご法度にされたのであろう。
その甲斐あってか御三家の雄・紀州徳川家は、11代の時に将軍家斉の子・斉順を養子にとったものの大政奉還まで無事続いたが、そのおかげで温州ミカンには選手交代の出番がついに訪れなかったものと思われる。
明治維新で選手交代
しかし、幕藩体制が崩壊して明治のご一新で、「種なし」を忌み嫌う呪縛が解かれると状況は一変。紀州藩が和歌山県となるや、従来の小ミカンから温州ミカンへの歴史的選手交代が実現、『図説和歌山県の歴史』(安藤精一編、河出書房新社、1988)によれば、これにより明治末から大正にかけて生産額を一気に伸ばして全国で首位に躍り出た。ミカン王国の名をほしいままにし、それは戦争を挟んで現在まで続いている。
農水省の調査によると、2021年のカンキツ類の収穫量は約102万t。うち温州ミカン(早生・普通あわせて)は74万9000tで全体の73%。都道府県別では、首位が和歌山県で14万7800t、2位が愛媛県で12万7800t、3位が静岡県で9万9700tと続く。
いっぽう江戸時代には紀州ミカンの主役であった小ミカンは、主産地の紀州だけでなく全国各地で消滅。中国から伝わったとされる熊本県八代に樹齢600年の原木があったが、1923(大正13)年に大洪水で流出。現在、同じく熊本県津奈木に残された推定樹齢360年の古木が県天然記念物に指定され、保護保存されている。
日本の大陸進出で輸出商品に
童謡「毬と殿様」には、作詞者の企図や思惑を超えた歴史的転機とのさらに興味深い符合がある。紀州和歌山では、明治維新によって小ミカンから温州ミカンへの歴史的転機が画されたが、今度は「毬と殿様」のリリースとほぼ時期を同じくして「国内向け」から「海外向け」への転機が訪れるのである。
「毬と殿様」が発表された1929(昭和4)年、ニューヨーク発の世界恐慌が勃発、日本の主力輸出品であった生糸が海外需要の激減から大暴落。産地は大きなダメージを受ける。和歌山県も生糸の主産地であったが、ダメージを救ったのはかねてから積極的に取り組まれてきた紀州ミカンの海外輸出であった。
前掲の『図説和歌山県の歴史』によると、主な輸出先は中国大陸、朝鮮、北米だったが、日本が満州国建国から盧溝橋事件を契機に大陸進出を強めるなかで、ミカンの大陸向け輸出が拡大。その大半は紀州ミカンで、それは和歌山県産ミカンの25%を占めるまでになっていく。
そのピークは1940(昭和15)年、翌年に英米と戦端が開かれ戦況が悪化するにつれ、主食の生産を優先させるため、多くのミカン畑は伐採されてイモ畑に転換。栽培面積は最盛時の半分以下となり、ミカンは受難の底へと沈みこんでいく……。
まさか、てんてんてん毬が紀州から海を越えて大陸まで飛んで行き、かくも悲惨な末路を迎えることになるとは、はたして作詞者は予想していただろうか。
紀州ミカンがふたたび奇跡の復活をとげるのは戦後になるが、それについては稿を改め、ミカンをテーマにした別の童謡を手がかりにして記すことにする。
「てん毬投げ」から「野球王国」に
ここで筆を擱こうと思ったが、「毬と殿様」にまつわる興味深い符合をもう一つひらめいたので、蛇足を加える。
てんてん手毬は温州ミカンとなって和歌山を「ミカン王国」にしただけでなく、野球のボールとなって和歌山を「野球王国」にもしたのではないか。
1897(明治30)年、青年教師の手ほどきで、旧制和歌山中学(現・桐蔭高校)の生徒たちが野球をはじめたところ、当初地元の人々は「てん毬投げ」と呼んで冷ややかだった。
しかし、同校が1915(大正4)年の第1回全国大会に出場。以来、甲子園の常連校となり、1921(大正10)年、22年には史上初の2年連続全国制覇、27(昭和2)年春の選抜大会でも優勝。さらに39(昭和14)年には海草中学(現・向陽高校)が2試合連続ノーヒットノーランをやってのけ、「野球王国」の名を日本全国にとどろかせ、地元の人々を大いに元気づけ誇りをもたらした。
しかし、41(昭和16)年、戦況の悪化によって全国大会は中止、てん毬が紀州にもたらしたミカンと野球という二つの「王国」は崩壊を余儀なくされる。
「てん毬投げ」が奇跡の復活を遂げるのは、ミカンよりも遅れること30年、紀州ミカン発祥地にある、校章にミカンをあしらった箕島高校(有田市)によって、高校野球史上3校目の春夏連覇を果たす昭和50年代まで待たねばならない。
てん毬がミカンとなっただけでなく、さらに野球のボールともなって、紀州和歌山をかくも長きにわたってチアアップすることになるとは、作詞の西條八十も想像だにしていなかったことだろう。
げに、はやり唄とは、ときに作者の企図や思惑を軽々と超えて時空を翔んでいく証といえようか。

(この項終わり)
著者:前田 和男(ノンフィクション作家)
1947年東京生まれ。日本読書新聞編集部勤務を経て、ノンフィクション作家、『のんびる』(パルシステム生協連合会)編集長。著書に『昭和街場のはやり歌』『続昭和街場のはやり唄』(ともに彩流社)。
*本連載は、季刊地域WEBにて毎月掲載されます。本誌では3回分を一部要約してお届けします。