『季刊地域』vol.57から始まった連載は、このウェブサイトで毎月更新します。誌面ではそれをまとめて別連載として続きます。どちらもお楽しみください。
前田和男(ノンフィクション作家)
戦時の軍歌、平時のプロパガンダ
「歌は世につれ、世は歌につれ」の後段の「世の中が歌につれて変わる」は、前段よりは頻度は低いがないわけではない。しかし、本連載26回で紹介したベトナム戦争を終結させたジョーン・バエズの「ドナドナ」のような、人々の集合的無意識が歌に憑依して世直しを迫る事態は、レア中のレアケースである。
歴史的には、権力者が歌をつかって、彼らにとって「都合のよい形」に世の中を変えるケースがほとんどである。国民と世の中を戦争へと駆り立てる「軍歌」がその典型で、より正確に言えば「世は歌につれる」のではなく、「世は権力によって歌につれさせられる」のである。
それは戦時に限らない。平時にも行なわれ、当時はもちろん、それから相当の歳月がたった後でもそれとは気づかれないところが、「戦時の軍歌」よりもかえって筋も質(たち)も悪い。
そんな重大事にそれまで露も気づいていなかったことに、遅ればせながら気づかされてわが不明を恥じた歌がある。その歌とは、「ミネソタの卵売り」である。
プロポーション抜群の妖艶な女性歌手がいきなり、
♪ココココ コケッコ
のけたたましい雄叫びを二度も連呼するや、
♪私はミネソタの卵売り
と名乗りを上げる。この意表をついた出だしの歌がリリースされたのは、まだ日本がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の統治下にあった1951(昭和26)年2月。歌手は暁テル子。SSK(松竹少女歌劇団)出身で当時29歳。ダンスで鍛えたスリムな姿態と、進駐軍兵士専用の「アニー・パイル劇場」でジャズを歌って場数を踏んだノリのいい歌唱力に服部良一が着目、「第二の笠置シズ子」として売り出そうとして数曲を提供したが不発。レコード会社が作詞・作曲を佐伯孝夫と利根一郎に変えたところ、3曲目の「ミネソタの卵売り」が同年に発売された津村謙の「上海帰りのリル」(作詞:東條寿三郎、作曲:渡久地政信)に次ぐ売り上げを記録、このブレイクで「西の笠置」にたいして「東の暁」と並び立つまでになる。
そのとき筆者は3歳でこの曲のデビューを耳にしたわけではなかったが、当時の歌謡曲の寿命は長く、10年近くもラジオから流され続けたので、しっかり記憶に残っていて今も口ずさむことができる。

ミネソタは卵の主産地にあらず
というわけで、「ミネソタの卵売り」はわが懐メロの最初期の一曲だが、改めて調べてみると、これほど謎に満ちた戦後歌謡はない。
まずはミネソタと卵の関係である。ミネソタ州は80年前も現在もアメリカを代表する鶏卵の地ではない。アイオワ、インディアナ、オハイオ、ペンシルベニアなどがその主要産地であり、ミネソタは全米の生産量の数%にすぎない。
さらに、日本でいえば、すでに私の幼少時の東京ではなくなっていたが、納豆やシジミやアサリを売り歩くのと同様の「卵売り」などという商売がそもそもアメリカにあったのか? あるいは「売り歩き」ではなくてもスタンド形態の卵専売店がミネソタにあったのか?
この歌を聞き覚えている同世代なら抱くであろう同様の疑問を吐露した、「ミネソタ卵の謎(特派員メモ・ニューヨーク)」と題したこんな記事を見つけて、思わずうなずいた。
「先ごろ、初めてミネソタ州を訪れた。出掛ける前から心が浮く旅だった。かねてから、『卵はミネソタ州の特産物か』を確かめたいと思っていたからだ。(略)
ミネソタで人に会う度に聞いたが、みなけげんな顔をした。ミネアポリスの目抜き通りに農家の青空市場が出ていたが、卵など売っていない。店の初老のおばさんは、『卵はどこにでもあるわ。なぜ、ミネソタなんでしょう』と笑い出した。
ニューヨークに戻ってこの話を妻にしたら、『ミネソタでもテキサスでも4文字ならメロディーに都合がよかったんでしょう』と素っ気ない。戦後五十年。私の小さな謎はまだ解けない。(小田隆裕)」(朝日新聞1994年7月29日朝刊)
謎と闇の日系GHQ将校、キャッピー原田
この記事からさらに30年、あれこれあたってみたが、同様の疑問は散見されたものの、これへの説得力のある回答は見つけられなかった。
そこでこの大手新聞社のアメリカ特派員にも解けなかった謎に、私なりに挑戦してみることにした。刑事よろしく、あちこち証拠を拾い集めた結果、浮かび上がってきたのは、記者が記したような「小さい謎」などではない、戦後日本社会のありようにかかわる大いなる謎であり、どうやらその謎の元凶は、「ミネソタの卵売り」を歌った暁テル子の夫、キャッピー原田こと原田恒男にありとの見立てに至った。
原田は、1921年カリフォルニア州はサンタマリア近郊で農業を営む和歌山県からの日系移民の子として生まれ、太平洋戦争ではアメリカ兵として戦い、戦後はGHQの情報将校として来日。マッカーサー元帥の片腕のマーカット少将の下で、さまざまな工作任務に従事したとされるが、その多くは謎に包まれたままである。
晩年の原田のインタビューに朝日新聞が成功、その一部が明らかになったが、それによると、大映映画の社長の永田雅一を戦犯リストから外し、岸信介、笹川良一、児玉誉士夫ら政界の黒幕たちを「有用な人材だから処罰よりも活用を」とGHQ首脳に進言。また、GHQを辞した後は、大リーグ球団の極東マネージャーに就任、日米野球のコーディネータとして活躍、また力道山の親友として不慮の死にいたる刺傷事件現場にも同席していたことなどが明らかにされている。
しかし、原田はインタビューの最後を、「話せないことはたくさんあるが、私はGHQの力を借りて、両親にささやかな恩返しができたと思う」と語り終えているように、肝心の極秘工作任務については戦後史の闇の中に残したままこの世を去った。
こうした経歴からして、「ミネソタの卵売り」をめぐるイニシアティブは原田がグリップしていたのは明らかであろう。失礼ながらレコード会社や作曲家・作詞家とは格が違う。「暁テル子の夫がGHQで腕をふるった日系アメリカ人だったことから場所をアメリカにした」と作曲家の利根一郎が語ったとされるが、それはプロデューサーである原田に忖度した証しに他ならない。
また、当時、進駐軍兵士たちが持ち込んだジャズが流行。ミネソタ出身のアンドリューズ・シスターズが人気を博していたことから「ミネソタ」が歌のタイトルに採用されたという指摘があるが、これも日米の音楽事情に通じていた原田の意向と判断による可能性が高い。

卵はアメリカ流の豊かな生活のシンボル
では、プロデューサーが原田だとして、この新機軸の歌を誕生させた企図とは何か、である。
1950年頃の卵1個は10~15円。現在の物価に換算すると100円前後になる。病人向けの〝特別食〟で普通の家庭の食卓に上ることはなかった。庶民の唯一の娯楽だった舶来映画で描かれる家族の団欒の食卓を飾る夢のメニューアイテムだった。
したがって「ミネソタの卵」から当時の日本人が抱いたであろうイメージは、具体的な食材の代表ではなく、アメリカ流の豊かな生活のシンボルだった。原田はそこに着目、1年後に迫った独立後の日本に向け、GHQのメッセージを卵に託して、妻の歌手に歌わせたのではないか。
「ミネソタの卵」を食べれば、
♪美人になるよ いい声出るよ
すなわち、独立した後も、アメリカの支配の下にとどまれば、やがてわがアメリカのような豊かな生活が手にはいる、と。
原田の企図はみごと奏功。それは、先に掲げた朝日新聞ニューヨーク特派員の記事でスキップした以下のくだりにあきらかである。
「タマゴは病気見舞いにするほど貴重だった。だからか、子供心に『ミネソタの卵』は『アメリカの豊かさ』の象徴として私の胸の中で大きく立派な卵に膨らんでいった」
おそらく筆者をふくめて、「ミネソタの卵売り」を口ずさめる世代なら、ほとんどが記者のコメントに同意するはずである。
しかし、それによって日本がいかに大きなものを失うことになったかを、その後私たちは80年間も気づかなかった。以下、その痛恨事をわが体験をもって検証してみよう。
アメリカ流ライフスタイルの普及は学校給食から
「ミネソタの卵売り」は独立後の日本へ向けたアメリカ流ライフスタイルの推奨であったが、それを奏功させるために大いに貢献したものがある。学校給食である。
それが始まるのは、終戦の翌年の1946(昭和21)年。緊急占領政策の一環として、国連のユニセフやアメリカ肝いりのガリオア資金(占領地域救済資金)などの援助を受けて実施された。そしてGHQによる占領時代が終わり日本が独立してからも、アメリカ政府からパン用小麦と脱脂粉乳の提供が続く。学校給食は、私たち団塊世代に直前の戦中生まれを加えると、1000万人以上のひもじい日本の子供たちを救い、戦後日本の復興と繁栄をもたらした……という麗しい物話が流布されてきた。
それは子供たちにこんな夢を与えた――コッペパンと脱脂粉乳に耐えれば、その先には「さて今日はサニーサイドかポーチドかスクランブルか、はたまたハムエッグかどれにしよう」と思い悩む憧れのアメリカのホームドラマの食卓が待っている、と。そして、ベビーブーマーたちはその夢をばねに企業戦士となり、高度成長が仕上げに向かう1960年代後半からは、平均的な家庭で卵が心置きなく食べられ、「卵は物価の優等生」といわれるようになる。
ところが、鈴木猛夫『「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活』(藤原書店、2003)などの類書にあたったところ、給食の背後で働いていたのは、じつは「おためごかし」と「やらずぶったくり」の非情にして巧妙なカラクリだった。
無償のはずだったガリオア資金はアメリカとの交渉で独立後に返済することになり、小麦と脱脂粉乳の「現物支給」もただなのは初年度だけで、無償分は毎年4分の1ずつ減じられる――つまり5年後には日本が「全量定価」で買わなければならない。そこには、第2次大戦終戦でダブついてしまった兵糧用のアメリカ産小麦をひもじい日本の子供にあてがうことで、自国の農業を救済するという巧妙な仕掛けがあった。
まさに「してやられた」のだが、それだけならあのまずい脱脂粉乳でアメリカの農民を救ってやったのだと怒りの矛の収めようもあるが、それによって戦後日本の農と食は完全に壊されてしまったのである。
本丸は日本の食生活と米農業の解体!?
じつは、アメリカにとって本丸は食糧難に苦しむ日本人全体の取り込みにあった。そのほうが圧倒的に量がはけるからで、それを国民に食べてもらうために日本政府はさかんに米食からパン食への「栄養改善運動」を行なった。「ひもじい日本の子供たちの救済」はきっかけづくりにすぎなかった。
「朝夕味噌汁とご飯」だったわが家でも、パンとミルクの学校給食に歩調を合わせるように「西欧化の食生活」へと変わっていった。どの家庭でも「ご飯を食べる子供はバカになる」が良き母親の合言葉になる。
そして気づくと、アメリカの農家は救われたが、日本の農家と米の消費量は半分以下に激減。自給率も4割を割り込み、米食文化は崩壊、日本の農と食は危機に立たされて現在に至っている。
もうひとつ重要で巧妙な仕掛けが仕込まれていた。日本の再軍備とのバーターである。つまり、当面無償で食糧を渡すが、それで浮いた財源を自衛隊創設に当てよというものだ。戦争放棄をうたった憲法と矛盾するものを抱えることになったのも、学校給食を通じて「ミネソタの卵売り」が大いに関係していたのである。
思えば、「ミネソタの卵売り」に煽られて、日本が失ったものはあまりにも大きい。いっぽうアメリカが得たものはとてつもなく大きい。しかも、両者のバランスがかくも理不尽すぎることに、当の日本人はいまだ気づかないままでいる。
敵ながらまことに見事なプロパガンダソングの最高傑作であった。
著者:前田 和男(ノンフィクション作家)
1947年東京生まれ。日本読書新聞編集部勤務を経て、ノンフィクション作家、『のんびる』(パルシステム生協連合会)編集長。著書に『「カチューシャ」とウクライナ戦争 いま甦るプーチンの〝笛吹き歌〟』(彩流社)、『冤罪を晴らす 食肉界の異端児の激闘20年』(ビジネス社)ほか。
*本連載は、季刊地域WEBにて毎月掲載されます。本誌ではその内容を一部要約してお届けします。
