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【唄は農につれ農は唄につれ 第16回】日本の近代化を芸能文化から支えた喫茶店

『季刊地域』vol.57から始まった連載は、このウェブサイトで毎月更新します。誌面ではそれを1回にまとめて別連載として続きます。どちらもお楽しみください。

前田和男(ノンフィクション作家)

食文化における脱亜入欧のシンボル

「茶と歌はどうつれあったのか」の項の最終回は、「茶」を「喫(の)む」場である「喫茶店」からのアプローチをもって締めくくろうと思う。

 本稿「茶の回」の第1回では、茶が生糸と並ぶ主力農産物として日本の近代化を支えたことを指摘したが、改めて調べ直してみると、喫茶店もまた芸能文化から日本の近代化を支え、その「縁の下の力持ち」度においては、茶よりも大きいかもしれないことに気づかされた。

 それは、どうやら「喫茶店」がその変幻自在ぶりで「茶」をはるかに凌駕しているからではなかろうか。

 そもそも冒頭で「喫茶店」を「茶」を「喫む」場と記したが、実際に「喫する」のは茶ではない。本家の中国で喫茶店にあたる「茶寮」では「茶」が供されるが、日本ではほとんどの場合コーヒーである。たまに「茶」が供されることもあるが、それは西欧由来の「紅茶」であって、緑の「日本茶」ではない。「茶」の看板を掲げて「コーヒー」を売る。さながら「羊頭狗肉」の飲料バージョンである。
 それは日本における「喫茶店」の生まれ育ちに由来しているようだ。

 日本の「喫茶店」の草分けは、1888(明治11)年、東京は下谷黒門町にオープンした「可否茶館」とされる。店名からもわかるように、「可否=コーヒー」が「茶」の一種に位置づけられている。なおコーヒーが日本で知られるようになるのは、江戸時代、長崎のオランダ商館経由で、当時の文献『和蘭問答』には、コーヒーは「唐茶」、すなわち異国由来の「茶の一種」と表現されている。

 そしてコーヒーは、明治の西欧近代化の中で、単なる異国由来の珍しい飲み物から、脱亜入欧を文化芸能から促進するシンボルとされるのだが、往時の日本人の多くはその味や香りになかなか馴染めない。そこで、「喫茶店」という江戸時代からの「茶文化」につながる場を使って受容されていったものと思われる。

「お茶する」が男女の出会いのづくりの代名詞に

 そして1920年代、「大正デモクラシー」と呼ばれる洋風の都市文化が花開くなかで、空前の喫茶店ブームが到来。それは昭和初期まで続く。その中で、喫茶店はさらなる変容をとげ、もはや主たる売り物は、脱亜入欧のシンボル飲料のコーヒーではなくなる。

 では、何が喫茶店の最大のウリになったのか? それは「男女の出会い」であり、「お茶する」とは、男女の出会いづくりの代名詞となる。
 それを象徴する歌がある。

「小さな喫茶店」(歌:中野忠晴、作曲:F・レイモンド、日本語詞:瀬沼喜久雄)。1928(昭和3)年にドイツでつくられたコンチネンタル・タンゴの歌謡曲で、1934(昭和9)年に日本に紹介され、戦後もザ・ピーナッツ、菅原洋一、フランク永井らによってカバーされ歌い継がれている。この歌では、喫茶店が「男女の出会いの場」であることが、こううたいあげられている。

小さな喫茶店(日本コロンビア)

♪小さな喫茶店に はいった時も二人は
 お茶とお菓子を前にして
 ひと言もしゃべらぬ


 ときに喫茶店は「男女の出会いの場」から、「禁断の恋の場」へと変化(へんげ)する。1929(昭和4)年、「東京行進曲」(歌:佐藤千夜子、作詞:西城八十、作曲:中山晋平)が発売されてたちまちヒット曲となるが、3番にその情景が煽情的に描かれている。

東京行進曲(ビクター)

♪シネマ見ましょか お茶のみましょか
 いっそ小田急で 逃げましょか


 この「東京行進曲」から12年後、日本は英米と戦端を開いて「欲しがりません勝つまでは」の耐乏生活の時代へと入る。思えば、これはモボモガ(モダンボーイ・モダンガールの略語)たちによる「つかの間の自由で開放的な情景」であった。
 戦後も、喫茶店は「男女の出会いの場」であり続ける。

 終戦直後に生まれた団塊世代の筆者にとって、「喫茶店初体験」は、1963(昭和38)年末にリリースされた「明日があるさ」(歌:坂本九、作詞:青島幸男、作曲:中村八大)の以下の歌詞のとおりであった。

明日があるさ(東芝レコード)

♪はじめて行った喫茶店
 たった一言好きですと
 ここまで出て ここまで出て
 とうとう云えぬ僕
 明日がある 明日がある 明日があるさ

ヒット曲は歌声喫茶から

 喫茶店の変幻自在ぶりは、「男女の出会いの場」として流行歌に題材を提供するだけにとどまらない。戦後まもない1950年代、名曲喫茶、シャンソン喫茶、ジャズ喫茶、そして歌声喫茶と多様な展開をみせながら、「歌を発信する場」へとジャンプアップする。
 これら「音楽系喫茶店」の中でも異彩を放ったのは歌声喫茶である。ピアノ、アコーディオン、ギターなどの小楽隊を店内に常設。客のリクエストをうけて、歌唱指導者がステージにたって司会をつとめ、時に客がステージに上がって歌い、客がこれに合唱して盛り上がる。

 1954(昭和29)年、新宿に誕生した「灯(ともしび)」が歌声喫茶の第1号とされるが、60年代前半には全国で優に200を超える隆盛をみる。
 その熱源となったのは、1958年の砂川闘争から60年の安保闘争へむけて盛り上がりを見せた国民的政治社会運動だった。

 1年以上にわたる安保条約反対の抗議行動には、全国6000カ所の集会やデモにのべ560万人もが参加。国会での承認をめぐる最終局面の6月19日には33万人ものデモの輪が国会を取り囲んだが、その中には、歌声喫茶の常連たちも加わっていた。

 歌声喫茶草分けの盛衰を描いた『「うたごえ喫茶ともしび」の歴史 歌い続けた65年間』(大野幸則著、唯学書房、2019年)はその状況がこう活写されている。
「1959~60年の歌声喫茶は、特にコマ裏『灯』、『どん底』ではデモ帰りの学生、青年であふれており、歌声が響き、激論が交わされ、恋が語られる熱気あふれた坩堝(るつぼ)と化していました」

 60年安保は自然承認され、闘いは敗北に終わったが、歌声喫茶はその余韻をうけて翌61年に大ブレイクする。歌声喫茶の定番曲「北上夜曲」「北帰行」「もずが枯木で」「琵琶湖周航の歌」「惜別の歌」「山男の唄」などが、レコード会社各社からシングル盤で発売され、ダークダックス、ボニージャックスなどのコーラスグループに加えてペギー葉山、石原裕次郎らトップシンガーが競って歌い、いずれも大ヒット。歌謡界には「ヒット曲は歌声喫茶から」の状況が生まれた。

 レコード会社は、新譜の中に歌声喫茶向きの曲があると、プロモーションの一環として歌手を都内に十数軒あった歌声喫茶に派遣。この年の9月に、「川は流れる」でデビューした仲宗根美樹もその一人だった。雨の日も風の日も歌声喫茶をまわってはキャンペーンを続け、年末にはデビュー曲をミリオンセラーに大化けさせる奇蹟をやってのける。

 いっぽうで、上條恒彦、さとう宗幸、もんたよしのりなど、歌声喫茶からメジャーへ飛躍した歌手も数多く生み出した。

「出会いの場」から「別れの場」へ

 その後しばらくは、政治の季節と歌声喫茶との蜜月は続くが、60年代後半になると、全国のキャンパスで燃えさかったベトナム反戦運動と学園闘争が鎮静化。おりしも、72(昭和47)年、連合赤軍によるあさま山荘事件で、若者たちの多くは政治運動に幻滅して離脱。歌声喫茶も絶滅する。こうした喫茶店をめぐる歴史的状況を映しだしたのが、同年にリリースされた「学生街の喫茶店」(歌:GARO、作詞:山上路夫、作曲:すぎやまこういち)だった。

学生街の喫茶店(日本コロンビア/DENON)

♪君とよくこの店に 来たものさ
 訳もなくお茶を飲み 話したよ

 
 筆者自身もそうだったが、このくだりは往時の怒れる若者たちの心情とぴたりと重なっていた。かつては「出会いの場」であり「政治を語る場」であった喫茶店は、「男女と政治の別れの場」になる。

 以来、時は流れ、ボブ・ディランが聞こえなくなって久しい。そして、「歌は喫茶店につれ、喫茶店は歌につれる」ことはなくなった。
 しかし、それによって、日本の芸能文化シーンが深化したとは、とても思えない。


著者:前田 和男(ノンフィクション作家)

1947年東京生まれ。日本読書新聞編集部勤務を経て、ノンフィクション作家、『のんびる』(パルシステム生協連合会)編集長。著書に『冤罪を晴らす 食肉界の異端児の激闘20 年』(ビジネス社)、『昭和街場のはやり歌』『続昭和街場のはやり唄』(ともに彩流社)。

*本連載は、季刊地域WEBにて毎月掲載されます。本誌ではその内容を一部要約してお届けします。


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農文協 編
遊休農地の活用策を探るシリーズの第3弾。 「誰が?」では、下限面積が廃止になった影響を検証。これまで農地を持たなかった人が小さい畑を取得する動きが各地で生まれている。農家も農地も減少しているが、兼業・多業による小さい農業が新しい「農型社会」をつくる事例を。 「なにで?」は農地の粗放利用に向く品目を取り上げた。注目はヘーゼルナッツ。 「どうやって?」コーナーでは、使い切れない農地を地域で活かすために使える制度・仕組みを取り上げた。
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