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【唄は農につれ農は唄につれ 第12回】「みかんの花咲く丘」は戦後80年を問い続ける

『季刊地域』vol.57から始まった連載は、このウェブサイトで毎月更新します。誌面ではその3回分を1回にまとめて別連載として続きます。どちらもお楽しみください。

前田和男(ノンフィクション作家)

「心の復興」を支えた陰のシンボルソング

 今年は戦後80年の節目にあたるが、戦後日本人の「心の復興」を、果物を主題にしながら陽と陰の両極で支えたシンボルソングがある。「陽」は敗戦2カ月後に映画の挿入歌としてお披露目された「リンゴの唄」(作詞:サトウハチロー、作曲:万城目正)、陰は翌1946(昭和21)年にラジオから流れた「みかんの花咲く丘」(作詞:加藤省吾、作曲:海沼實)である。

みかんの花咲く丘(COLUMBIA)

「リンゴの唄」は本連載の第2回で取り上げたが、映画「そよかぜ」(監督:佐々木康、松竹)で主演の並木路子自身がうたったものでヒットは予想できた。かたや「みかんの花咲く丘」はラジオ番組のために「にわか仕立て」でつくられたもので、当然にも当初の期待値は低く、意外性という点では「リンゴの唄」よりもドラマにとんでいるといえよう。

「瓢箪から駒」の大ヒット

『世界と日本の愛唱歌・抒情歌事典』(長田暁二、ヤマハミュージックメディア、2015)と『童謡名曲事典』(長田暁二、全音楽譜出版社、20年)によると、それは、出たとこ勝負による「瓢箪から駒」だったようだ。

 空襲で家を焼き出された作曲家の海沼實は、戦中に彼が育てあげた童謡歌手の川田正子・孝子姉妹の実家(東京)に身を寄せていたところ、NHKから、東京本局と静岡県伊東の国民学校を二元中継で結ぶ、今でいうなら「歌謡バラエティ番組」の主題歌づくりの依頼が舞い込んだ。そこへたまたま、1938(昭和13)年に「かわいい魚屋さん」で作詞家デビューしていた加藤省吾が、自ら立ち上げた「ミュージック・ライフ」誌の取材のため川田姉妹を訪ねてきた。

 海沼は「ちょうどいいところへきた」とばかり、番組の主題歌の作詞を加藤に依頼。当時日本の支配者であったGHQによる検閲を考えると2時間でつくらなければ間に合わない。

 海沼が「伊東が舞台だから、ミカンをテーマに、丘から海が見えて、船に黒い煙を吐かせて……」と具体的に注文し、加藤がそれに応じて20分ほどで仕上げたのが、

 1番の♪みかんの花が 咲いている 思い出の道 丘の道~
 2番の♪黒い煙を はきながら お船は どこへ行くのでしょう~

 である。

 しかし3番は、海沼から特段の指示はなかったので、

 ♪何時か来た丘 母さんと 一緒に眺めた あの島よ~

 と自身の想のわくまま赴くままに書き上げた。

 それを受け取った海沼は、川田正子をともなって伊東へ向けて東海道線に飛び乗り、車中で作曲に取り掛かると、国府津をすぎたあたりで、ヴェルディの「椿姫」の一節が浮かび、そこから着想を得て8分の6拍子のメロディを完成させる。

 後の川田の回想によると、伊東の旅館に着くや、風呂で海沼に背中を流されながら口伝えで歌詞とメロディを教わり、翌日の本番の生放送では、海沼の名刺の裏に書いた歌詞を見ながら必死に歌ったという(読売新聞96年6月16日朝刊「うた物語」上)。

 上記エピソードが示すように、当の海沼は1回限りの即席仕事ぐらいに思っていた節がある。放送終了後に大反響をよんで、海沼と川田の代表曲となっただけでなく、童謡にはくくりきれない戦後歌謡史の最初のページを飾る「国民歌」になるなどとは想定していなかったはずである。

「あの歌は、3番があるからいい」

 それにしてもなぜ、「みかんの花咲く丘」は、当事者たちにとっても想定外のビッグヒットとなったのか? その答えの一つは、間違いなく3番の歌詞にある。

 加藤省吾自身も81歳のときに、前掲の新聞の特集記事で、「あの歌は3番の歌詞があるからいいと言って下さる方も多いんですよ」と述懐している(読売新聞96年6月23日朝刊「うた物語」下)。

 ちなみに3番の「♪何時か来た丘 母さんと」で始まる歌詞は「♪今日も一人で 見ていると やさしい母さん 思われる」でエンディングとなる。

 おそらく母親は死んでもうこの世にはいない。この暗喩は、空襲で母親を亡くした人々の琴線をふるわせただけではない。敗戦によって、母親を失ったに等しい心境にあった国民のほとんどに共感を呼んだことは想像に難くない。

GHQへの忖度か

 これにまつわる興味深いエピソードがある。

『日本童謡事典』(上笙一郎編、東京堂出版、05年)にこう記されている。

「初期のテキストやレコードの中に、第3連の最後が『やさしい姉さん 思われる』となっているものが見られるのは、戦後直後期、アメリカ軍の空襲で母を失ってしまっている子どもたちも少なくなく、そういう子どもたちへの配慮から、〈お嫁に行った『やさしい姉さん 思われる』〉と受け取れるように変更したキングレコード盤があったのに起因する」

 これは、反米感情をいたずらに刺激したくないと、レコード会社がGHQに忖度した証左だが、裏を返せば「やさしい母さん」の歌詞がいかに当時の日本人の琴線を激しく震わせたかの証左でもあった。

戦中戦後を生き延びた傷心を癒やした

 しかし、忖度したレコード会社がわずか1社で、さらにGHQがその忖度に乗じて、戦前の日本や戦後の某国のように「歌詞の全面書き換え」を強制しなくて幸いだった。そのおかげで「みかんの花咲く丘」は、戦中戦後を生き延びた多くの日本人の傷心をいやすことができた。その証拠を、同歌を特集した新聞記事への読者投稿から見てとることができる(読売新聞92年7月28日夕刊「あの歌この里」)。

 そこから二つを以下に掲げる。

「終戦まもない頃、戦火を免れた荒川区第三瑞光小学校に川田正子・孝子さんの姉妹が巡回してきた。小学四年生だった私は胸が高なった。入場料が払えなかったので、校庭から見上げるようにして講堂からもれてくる歌を聞いた。今でもこの歌を聞くと、焼け野原から通学していた頃を思い出す」(男・54歳)

「終戦後のころ、遊びといったら、母が作ってくれた布製の人形。それにハーモニカをよく吹いた。電気制限のあった時代、やっと聞き取れるようなラジオで覚えた歌である。(略)自身を慰め、幼き日を回想したものだ」(女・53歳)

 敗戦で茫然自失の日本人の多くは、「♪赤いリンゴに唇よせて~~」の並木路子の「リンゴの唄」による「陽」の歌声に元気づけられ、そのいっぽうで、「♪やさしい母さん思われる」の「みかんの花咲く丘」で傷心を慰撫されたのだった。

 したがって、ほぼ数カ月の「時差」でリリースされたこの二つの歌は、戦後日本人の「心の復興」を陽と陰の両極から支えた「組曲」とみていいのではないだろうか。

「丘」の意味

 しかし、それだけでは「みかんの花咲く丘」の大ヒットは説明できない。

 タイトルを含めて3度も「丘」が登場することにそのカギがある、と気づかされたのは村瀬学の『なぜ「丘」をうたう歌謡曲がたくさんつくられてきたのか』(春秋社、02年)である。

 同書は、「♪緑の丘の赤い屋根」「鐘の鳴る丘」(歌:川田正子、作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而、47年)、「♪丘のホテルの赤い灯も」「悲しき口笛」(歌:美空ひばり、作詞:藤浦洸、作曲:万城目正、49年)など、戦後のヒット歌謡には「丘」が頻出することに着目し、「みかんの花咲く丘」についてこう記す。

「この歌の肝心なところは、『丘』の描かれ方である。主人公はこの『丘』に登らなければ、『遠くの船』は見られなかったし、『やさしい母さん』のことも思い出せなかった。そういう『高み=丘』が、実は誰の心の中にもある、ということが歌われているのではないか。(略)だから、誰の心の中にもこの『丘』があると言う時、人は必要があれば、必ずこの『丘』に登るということなのである。そしてそもそも『歌』をうたうということは、そういうことをしようとしている時ではないのかと私は考えてきた。『懐かしの歌謡曲』などというテレビを見ている時、私たちは自然とこれら歌の持つ『丘』に登っている。そしてふと『失った過去』や当時『抱いていた希望』を、昨日のことのようにまざまざと思い出す体験をする。歌には、不思議な『高み=交差点』がある。それが『丘』なのだ。そしてこの『丘』は形を変えて、その後様々に歌の世界でうたわれていくことになる」

 戦後歌謡における「丘」とは、「喪失と再起の場」であるという村瀬の仮説は、どうやら私自身にもあてはまりそうだ。

 私の母親は、57(昭和32)年、私が小学校2年生の春、30歳で急逝した。ある日曜の昼下がりだった。突然母親は寝床に伏した。仕事人間の父は例によって仕事か接待で不在だった。母の訴えで、妹と一緒に近所の医者へ往診を頼みにいったが休診を理由に断られた。母の容態は悪化するいっぽうで、うわごとをいうようになった。父が戻ったのは日が変わった深更だったが、もはや手遅れで母は明け方に息を引き取った。死後にやってきた医者の診たては急性心不全。前日に届いて、「これで楽になる」と喜んでいた電機洗濯機はついに使わずじまいとなった。

 以来、私にとって「みかんの花咲く丘」は、3番ゆえに歌うのはもちろん聞くのもつらい曲となった。しかし「あまりにも早すぎる母の喪失」が、私に「誰よりも早い再起と自立を促した」という意味では、この歌は私にとって「丘」の役割を果たしてくれたことは間違いない。

 私の体験は、国破れて失意の底にあった多くの日本人がこの歌に共感した体験とおそらく通底するものだろう。

拉致被害の母子をつなぐ柑橘の香り

 じつは「みかんの花咲く丘」には、村瀬が指摘する「丘」以外にも、作詞・作曲者も企図していなかったメッセージが託されている。ミカンが発する「香りの力」だ。それを気づかせてくれたのは、北朝鮮に拉致された横田めぐみさんと母親の早紀江さんの「香り」をめぐる以下のエピソードである。

 一時、北朝鮮で同居していた曽我ひとみさんによると、めぐみさんから「お母さんはいつも香水の匂いがしていた」と聞かされ、早紀江さんも「お母さんが通ると、いい匂いがするから見ていなくともわかる」と娘からよく言われたと明かしている。早紀江さんは柑橘系の香水を愛用していた。

 北朝鮮はミカンの北限を超えているので、ミカンが白い花を咲かせ、赤い果実を実らせることはない。しかし、古くは日本書紀に「非時香菓」――「時を超えて芳香を放つ果実」と記されているように、その香りは時間と場所を楽々と越えることができる。

 めぐみさんは母親の柑橘系の香水の匂いによって、音楽の授業で習いうたった「みかんの花咲く丘」の3番「♪やさしい母さん」をきっと思い起こしたはずである。

 しかし、ミカンの花咲く「丘」が「喪失と再起の場」であるとしたら、この母と子には「喪失」ばかりで「再起」はさっぱり見えない。二人はそれぞれ遠く離れた「丘」に登って、はるかで海の彼方をみつめながら再会を待ち望んでいるが、それが訪れる気配はいまもってない。

 母子の悲願をはばんでいる背景には、大陸と朝鮮半島における戦前の日本の「ふるまい」がある。それが国交断絶と拉致を生んだそもそもの淵源である。

 戦後の日本は、今日よりも明るい明日を信じてひたすら走り続けた。それを「陽の応援歌」として支えたのが「リンゴの唄」だったが、21世紀を前にバブルがはじけて挫折、失われた30年がいまも続いている。

 いっぽう「みかんの花咲く丘」はどうか。敗戦の傷心から国民を慰撫する「陰の癒し歌」の役割を果たしたが、失われた30年による心の痛手を癒す、「みかんの花咲く丘」の代役は生まれていない。日本は、横田母子と同じく「喪失」のままで、「再起」のきかけをいつかめずにいる。

 戦後80年の節目に改めて思う。戦後は終っていない、いないどころか戦前が蘇る気配すらある。

「みかんの花咲く丘」は、「戦後80年とは何だったか」の問いを私たちに突きつけている。

(この項つづく)


著者:前田 和男(ノンフィクション作家)

1947年東京生まれ。日本読書新聞編集部勤務を経て、ノンフィクション作家、『のんびる』(パルシステム生協連合会)編集長。著書に『昭和街場のはやり歌』『続昭和街場のはやり唄』(ともに彩流社)。

*本連載は、季刊地域WEBにて毎月掲載されます。本誌では3回分を一部要約してお届けします。


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農文協 編
遊休農地の活用策を探るシリーズの第3弾。 「誰が?」では、下限面積が廃止になった影響を検証。これまで農地を持たなかった人が小さい畑を取得する動きが各地で生まれている。農家も農地も減少しているが、兼業・多業による小さい農業が新しい「農型社会」をつくる事例を。 「なにで?」は農地の粗放利用に向く品目を取り上げた。注目はヘーゼルナッツ。 「どうやって?」コーナーでは、使い切れない農地を地域で活かすために使える制度・仕組みを取り上げた。
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