『季刊地域』vol.57から始まった連載は、このウェブサイトで毎月更新します。誌面ではそれをまとめて別連載として続きます。どちらもお楽しみください。
前田和男(ノンフィクション作家)
浜の女たちの実力闘争で始まった元祖・米騒動
価格高騰で始まった日本人の主食をめぐる国民的大騒動は、いまだに収束の気配がない。同様の事件を過去に求めると、大正7(1918)年に起きた米騒動を元祖として、終戦直後の昭和21(1946)年の米よこせ食糧メーデー、平成5(1993)年の冷夏をうけたタイ米の緊急輸入に続いて、史上4度目になる。「令和の米騒動」と称されるゆえんである。
改めて振り返ると、これら大正・昭和・平成・令和の四つの米騒動のいずれも、歌がその出番を鳴り物入りで演出していたことに気づかされた。そこで3回にわたって、この四大米騒動を唄たちとともに読み解いてみたい。
まずは、元祖・米騒動をとりあげる。
それが起きたのは107年前の大正7(1918)年7月22日。ところは富山東部の魚津。
不作でもないのに米が暴騰。ちなみに前年の大正6年、米の相場を決定する大阪は堂島での平均価格は1石16円65銭だったが、翌7年にはなんと3倍の41円5銭に一気に跳ね上がっていた。
これが魚のとれない時期にあった富山の漁師たちの生活を直撃。立ち上がったのは浜の女たちだった。米穀商に押しかけ「ただで寄こせとはいわん、県外へ出さんで安くしてくれ」と訴えるのを尻目に、浜では沖合の蒸気船に艀で地元の米が積み込まれていく。女たちは身体をはってそれを阻止して凱歌をあげた。
このニュースは地元の高岡新報(現在の北国新聞)の主筆のネットワークによって、米相場をグリップする大阪の主力メディアである朝日新聞と毎日新聞に電報で伝えられると、たちまち全国に波及、「国民的大騒動」へと煽り上げられた。

買い占めによる米暴騰の背景にシベリア出兵
富山魚津の浜の女たちの実力闘争から一月たらずの大正7年8月12日の読売新聞(東京)朝刊社会面は、その大半を費やして、全国各地の大騒擾の状況を、次のようにセンセーショナルに報じている。
「名古屋の米騒動、昨夜竟(つい)ひに流血を見る/警官百有余名抜剣す/群衆より重軽傷者数十名」
「京都一揆の其後/鎮撫策の醵金三千円/市当局は楽隊入りで慰撫する」
「仙台に市民大会外米廉売を要求」
「広島県 米穀商に強談せむとて約二百人が集合」
「和歌山県 米穀商数戸を襲ひ、戸障子破壊の暴挙に出で」
「東京府 廉売米は絶さぬ/府の鮮米売出本日から/一人三升」
富山の漁港から火がついた米騒動は1道3府37県の369カ所に及んで数百万人が参加したが、10万人超の軍隊の出動によりほぼ2カ月間で終息させられた。
しかし、元祖・米騒動の起因は、米穀商たちの「単なる投機」ではなかった。シベリア出兵によって兵站用に米の需要が高まるとの思惑による「買い占め」が真因だった。
稀代の演歌師・唖蝉坊
暴力沙汰は2カ月で終息したものの、むしろそれが引き金となって、国民の間に国への不満を根深く鬱積させていく。それを探りあて、巧みにそれを刺激して増幅させた歌がある。「豆粕ソング」といい、以下に歌詞の一部を掲げる。
♪高い日本米はおいらにゃ食へぬ
おいらそんなもの食はずとも、よ
どんな変なもの食はされたとても
生きて居られりゃそれでよい
♪粕だ、粕、粕、おいら米は食へぬ、
食へりや此の世が嘘ぢゃもの、よ
何はともあれおメデたい御代ぢゃ
生きてゐられりゃありがたい
豆粕とは、大豆から油を搾った残りカスで、牛や豚や鶏のエサとなり農産物の有機肥料に使われていたが、当時東京市長の田尻稲二郎が「米が高いなら豆粕を食えばいい」といって物議をかもしたことを皮肉ったもので、大いにうけた。
この「豆粕ソング」を歌いひろめたのは、明治・大正・昭和期に活躍した演歌師・添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう、明治5年~昭和19年)。

「演歌師」とは、明治初期の自由民権運動の中から生まれた、節をつけて「政治的演説」をおこなう「壮士節」をルーツとする。唖蝉坊は、幸徳秋水や堺利彦などの社会主義者らと交流をもち、時の権力を揶揄することで明治末に頭角をあらわす。たとえば、演説会に招かれると、日露戦争をネタに「♪大臣大将の胸元にピカピカするものなんじゃいな。金鵄勲章ちがいます、可愛い兵士のシャレコウベ」とぶちあげて、警官から「弁士中止!」と弾圧をくらうことで人気を博していた。
なお「豆粕ソング」の元歌は「憎いあんちきしょう」(作詞:北原白秋、作曲:中山晋平)。松井須磨子を看板女優に擁して人気を博した、島村抱月が主宰する「芸術座」の創作芝居「生ける屍」の劇中歌で、こんな出だしで始まる。
♪にくいあん畜生は おしゃれな女子
おしゃれ浮気で薄情ものよ
どんな男にも好かれて好いて
飽いて別れりゃ知らぬ顏
この劇中歌は低俗・頽廃的で風俗を紊乱するとの理由から発禁となるが、これでかえって話題を呼び、爆発的なヒットとなる。その人気にあやかろうと替え歌にした唖蝉坊の「こばんざめ方式」はなかなかの才覚である。
同工異曲の風刺演歌「のんき節」
ほぼ時期を同じくして、唖蝉坊はもう一曲、こんな歌詞の風刺演歌「のんき節」をはやらせる。
♪貧乏でこそあれ 日本人はエライ
それに第一 辛抱強い
天井知らずに 物価はあがっても
湯なりカユなりすすって 生きている
アハノンキだね
♪膨張する膨張する 国力が膨張する
資本家の横暴が 膨張する
おれの嬶(かか)ァの お腹が膨張する
いよいよ貧乏が 膨張する
アハノンキだね
前曲の「豆粕ソング」とちがって、直接米騒動は歌いこまず、米騒動の背景にある貧困、労働問題、政治腐敗などを鋭くえぐりだして洒落のめしている。曲も詞も唖蝉坊のオリジナルだが、関東大震災後の世の中を明るくするために描かれて人気を博し、日本の4コマ漫画の原点ともいわれた麻生豊の『ノンキナトウサン』を下敷きにしている。これまた他人の人気にあやかる同工異曲の「こばんざめ方式」で、お見事というほかない。
船頭小唄の替え歌で人心つかむ
唖蝉坊の挑戦的パフォーマンスはさらに続く。
米騒動の3年後、『船頭小唄』(作詞:野口雨情、作曲:中山晋平)というペシミスティックな歌が大ヒットする。
♪俺は河原の枯れすすき
同じお前も枯れすすき
どうせ二人はこの世では
花の咲かない枯れすすき
その年の夏に、国民の3分の1が罹患し40万人近くもが命をおとしたスペイン風邪はようやく終息をみせる。歌詞が全編にわたって厭世的で死さえ予感させ、メロディもそれに輪をかけて暗く物悲しいのに大ヒットしたのは、厄災が去った後の反動で、社会が強烈な敗北感と挫折感に襲われていたからではないだろうか。
さらにその2年後の大正12(1923)年9月1日、関東大震災が起き、〝帝都〟東京をふくむ首都圏を襲って〝一等国〟になりかけた日本に壊滅的被害をもたらす。すかさず唖蝉坊は、『船頭小唄』をこんな替え歌にして、荒廃の極に沈んだ人心をつかむ。
♪俺は東京の焼け出され
同じお前も焼け出され
どうせ二人は家もない
何も持たない焼け出され
思えば、大正7年の米騒動に襲われてからの日本は、災厄の連続であった。ほぼ時を同じくしてスペイン風邪が猛威をふるい。その災厄の渦中で空前絶後の大震災が発災。4年後には昭和恐慌、その翌々年にはニューヨーク発の世界恐慌がおき、日本は活路を大陸に求めて後戻りがきかない戦争への道へと突き進んでいく。
危くも儚い大正デモクラシー
いっぽうで、元祖・米騒動を挟んだ20年前後は、自由な西欧的市民生活を謳歌できた大正デモクラーの時期と重なる。長髪のモボと短髪のモガが腕を組んで銀ブラをしながら愛を語りあう。そんな自由な空気感を漂わせる流行歌が大いにうけた。そのはしりは、
♪カチューシャかわいや別れのつらさ…
の「カチューシャの唄」(作詞:島村抱月/相馬御風、作曲:中山晋平、大正3年)であり、
♪命短し恋せよ乙女…
の「ゴンドラの唄」(作詞:吉井勇、作曲:中山晋平、大正4年)である。
前者はトルストイの『復活』、後者はツルゲイネフの『その前夜』の劇中歌であり、いずれも唄は主演の松井須磨子だった。この2曲は100年後のいまも、多くの歌手によってカバーされ、うたいつがれている。
これにもう一曲加えると、
♪待てど暮らせど来ぬ人は…
の「宵待草」(作詞:竹久夢二、作曲:多忠亮、大正7年)である。
さて、これらの大正ロマンが香りたつラブソングと、米騒動をはやしたてた「豆粕ソング」「のんき節」「船頭小唄」の、いったいどちらの唄たちが、最終的に時代の主役となったのか?
振り返ると、この20年前後は、破滅の戦争へと向かう空気と自由を謳歌する気分とが、表と裏、明と暗となって危く拮抗していた。いったいその後、どちらが時代を制したかは、歴史が証明している。
当時の日本人はそれに気づけなかったが、元祖・米騒動とは単なる米価暴騰への抵抗運動ではなかった、それをはやしたてた唄たちと共に、その後の日本の行く末を予知していたのだった。
著者:前田 和男(ノンフィクション作家)
1947年東京生まれ。日本読書新聞編集部勤務を経て、ノンフィクション作家、『のんびる』(パルシステム生協連合会)編集長。著書に『冤罪を晴らす 食肉界の異端児の激闘20 年』(ビジネス社)、『昭和街場のはやり歌』『続昭和街場のはやり唄』(ともに彩流社)。
*本連載は、季刊地域WEBにて毎月掲載されます。本誌ではその内容を一部要約してお届けします。