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【唄は農につれ農は唄につれ 第13回】「瀬戸の花嫁」は「農業農村つぶし」の序曲だった

『季刊地域』vol.57から始まった連載は、このウェブサイトで毎月更新します。誌面ではその3回分を1回にまとめて別連載として続きます。どちらもお楽しみください。

前田和男(ノンフィクション作家)

「古き良き日本の再発見」ブームに乗って

 ミカンをテーマにした唄の最終回は「瀬戸の花嫁」(歌:小柳ルミ子、作詞:山上路夫、作曲:平尾昌晃)を取り上げる。歌詞にミカンは隻句たりともないが、

 ♪段々畑と さよならするのよ~

 の「段々畑」が、多くのリスナーには、瀬戸内海の島のミカン畑を連想させると思われるからだが、そもそも制作側では、当初からミカンはこの歌のモチーフとはされていなかった。

「瀬戸の花嫁」がリリースされた10年後に同歌をとりあげた読売新聞の連載「歌のあるばむ」(1982年10月17日朝刊)に筆者の調査と推察を加えると、この歌の誕生のいきさつは以下の通りである。

 リリース前年の1971年、小柳ルミ子の「私の城下町」がミリオンセラーの大ヒットとなる。これを受け、作曲は引き続き平尾昌晃、作詞は安井かずみを山上路夫に替えて次作の検討が始まった。山上と平尾とレコード会社のディレクターの3人が鳩首協議。「私の城下町」のヒットは国鉄のディスカバージャパン・キャンペーンによる「古き良き日本の再発見」ブームにうまく乗ったからとの分析評価から、2匹目のドジョウをねらって「瀬戸の夕焼け」と「峠の花嫁」の二つがテーマとして浮上。だったら両方を足して2で割って「瀬戸の花嫁」でいこうと衆議一決した。

瀬戸の花嫁(ワーナー・ブラザース・パイオニア)

「お見合い方式」から生まれたヒット曲

 ずいぶんと乱暴な話だが、もっと乱暴なのは、山上自身は、それまで瀬戸内海の島に降り立ったこともなく、作詞にあたって「現地」を取材することもなかった。前掲の読売新聞の記事で山上はこう述懐している。

「(仕事で移動中に)赤潮で汚れた瀬戸内海を空から見たことがある。もっとずっときれいなはずだ。いやきれいでなくてはいけない。この気持ちが、後、この歌を書く時の底流になっていたと思う」

 さらに乱暴なのは、次に山上と平尾が会ったのはそれぞれ詞と曲ができあがったときで、この歌の打ち合わせとしてはそれが最後だった。業界では「お見合い方式」と呼ぶそうだが、「以心伝心って、いうんですか、もう、ぴったりだったですよ」(平尾)、「あんなにうまく合ったことなど、それまで一度もなかったです。多分、これからもないでしょう」(山上)と、両者の呼吸はぴたりと合って、足し算も引き算もされず、オリジナルのまんまでリリースになったという。

 歌謡界では、用意周到な仕込みよりも、えてしてこうした乱暴な手法から歴史的ヒットが生まれるらしく、どうやら「瀬戸の花嫁」はその典型だったようだ。

「記録」よりも「記憶」に残る昭和の名歌謡に

 「瀬戸の花嫁」は、72年4月にリリースされると、たちまちヒットチャートのトップに躍り出るや合計で74万枚を売り上げて、134万枚の「私の城下町」と並ぶ小柳ルミ子の代表曲となる。だが、この歌の真価は「記録(売り上げ枚数)」よりも「記憶」にあった。

 89年、昭和が終わって元号が平成と改まったのを機に、NHKでは20代以上の男女2000人を対象にアンケート「心に残る昭和の歌200」を実施。そこで「瀬戸の花嫁」は、1位「青い山脈」(藤山一郎・奈良光枝、49年)、2位「影を慕いて」(藤山一郎、32年)、3位「リンゴ追分」(美空ひばり、52年)、4位「上を向いて歩こう」(坂本九、61年)、5位「悲しい酒」(美空ひばり、61年)、6位「柔」(美空ひばり、59年)につぐ堂々の7位にランクインしたのである。ちなみに「私の城下町」は、はるか下の77位であった。

 なぜ、「瀬戸の花嫁」は名だたる先輩格の昭和の名歌謡たちを尻目に「記録よりも記憶に残る曲」となりえたのか?

 前作の「私の城下町」同様、折からのディスカバージャパンによる「地方再発見」ブームにうまく乗れたからなのか? だったら売上74万枚「瀬戸の花嫁」が7位で、134万枚の「私の城下町」が77位の「逆転現象」を説明できない。

 ちなみに、「私の城下町」と「瀬戸の花嫁」が共に狙いを定めた「地方再発見」ブームへの訴求ポイントを比べてみると、「舞台」としては、前者は「城下町」、後者は「瀬戸内海の島」。「主人公」では、前者は「古い城下町に生まれ育った娘」、後者は「別の島へ嫁ぐ娘」と両者遜色ない。「メインの情景」では、前者は「♪見上げる夕焼けの空に~」、後者は「♪瀬戸は夕焼け 明日も晴れる~」と、どちらも「夕焼け」で優劣なし。

ミカンの映像喚起力

 では、「瀬戸の花嫁」が売り上げで倍近く上の「私の城下町」よりも日本人の「記憶」に残ったのは、どこがどう違ったからなのか?

 筆者のみるところ、それはミカンの映像喚起力にある。

 前述したように、当初、制作側にあった歌のテーマは「瀬戸の夕焼け」と「峠の花嫁」で、そこにはミカンはなかった。ところが、リスナーの多くは、この歌から歌詞にはないミカンを読みとって、頭に、段々畑のミカンの赤い実が夕焼けの赤に重なり、白無垢の花嫁衣裳と紅白のコントラストをつくる映像が思い浮かんだはずである。

 もし、瀬戸内海の島々にミカン畑がなかったらどうだっただろうか。段々畑が他所と同じように、雑穀類やダイコンやニンジンなどの蔬菜、その中に果樹がぽつんぽつんとある風景だったら、おそらくリスナーの共感は得られず、日本人の「記憶」に残るベスト7の歌とはならなかっただろう。

 いっぽう「私の城下町」には、「赤い夕焼け」にシナジー効果をもたらすミカンにかわるものがなかった。もしあったら、両者の順位は売上枚数に比例して入れ替わっていたことだろう。

 したがって、「瀬戸の花嫁」を「日本人の記憶に残る昭和歌謡ベスト10入り」させた陰の功労者、それはミカンだったと推定してもいいのではないだろうか。

ミカンは「小さな幸せ」のシンボル?

 さらにこのミカンの映像喚起力を陰で支えたものは「時代状況」だった。

 65年11月から始まった「いざなぎ景気」は、70年7月に57カ月間という戦後最長をもって終息。その後70年、71年と景気は陰りをみせるが、72年には緩やかに上昇。戦後日本のひたすら右肩上がりの高度成長が「踊り場」で一息ついたところで生まれたのが「瀬戸の花嫁」だった。その先には、かつてほどの成長は望めないが、それでも「ささやかだが明るい明日」が続き、また東京中心の豊かさが地方へも及ぶのではないかとの淡い期待を多くの国民に抱かせた。

「瀬戸の花嫁」には、そんな時代の気分が通奏低音として流れていて、おそらく当時の多くのリスナーたちは、瀬戸内海の小さな島の「健気な花嫁」の「小さな幸せ」を「自分ごと」として応援したのではなかろうか。そして、その「小さな幸せ」のシンボルには、丸くて小さい赤いミカンはよく似合っていた。

 こうした時代状況もまた、「瀬戸の花嫁」が日本人の「記憶」に残る歌となった背景であり理由でもあったといえよう。

ミカン農家にとっての1972年

 しかし、作詞家も作曲家も、そしてこの歌を支えた多くのリスナーたちも、このとき当のミカンに何が起きようとしていたかを知らなかった。

「瀬戸の花嫁」がリリースされ爆発的ヒットとなった72年とは、ミカンにとってどんな年だったのか? その後、ミカンには何が起きたのか?

 その背後には、国民のほとんどに隠された「不都合な真実」があったことをつまびらかにしてくれる、ミカン農家による貴重な「証言集」がある。農民作家であり米とミカン農家でもあった山下惣一がまとめた『農政棄民 それでもみかん農家は負けない』(恵友社、2001年)だ。

ミカン農家であり小説家でもあった故山下惣一さん。ご自身のミカン畑で(『現代農業』2015年4月号より)

 85~90年にわたって、5名のミカン農家が原告となり国を相手どって、国家賠償を求めた裁判の記録である。原告の主張は、61年に制定された農業基本法の「選択的拡大」でミカン栽培を推奨した挙句、過剰生産と価格下落の中で、オレンジの輸入自由化を強行。ミカン農家に損害を与えたので賠償しろというものだが、あえなく「却下」。ニュースにもならずに歴史の闇に葬られた。

 山下自身は原告側の証人として出廷。国の推奨を信じて水田を傾斜地の畑と交換してミカン栽培に挑戦、度重なる生産過剰や自由化による価格下落に対しても、国の指導を真に受けて、3~5年出荷できなことも覚悟で新品種に切り替えて頑張り続けたが、ついにそれを放棄するにいたるまでを淡々と語っていて、説得力がある。

 同書によると、ミカン農家にとっては「瀬戸の花嫁」がリリースされた72年が最盛期であり、消滅への始まりであった。その年にはミカン畑は全国で17万haあったが、その年の「豊作貧乏」とその後のオレンジの自由化により、26年後の98年には最盛期の3分の1の6万4000haにまでに激減。山下が所属する「JA唐津市」では1200戸あったミカン農家は200戸を割り込み、山下の集落でも100名が9名になってしまったという。

 ここで重要なのは、これはいまや全国で栽培農家3万7000戸、栽培面積2万6000ha(温州ミカン、農林業センサス2020年)となった超少数派の「残酷物語」ではないことだ。同書のタイトルにあるように、国の土台である農業農村を切り捨てていく「棄民農政」がミカンに象徴されているにすぎない。ディスカバーしたい「古き良きジャパン」は、農家以外の圧倒的多数派の国民にとっては消滅へ向かっているということでもある。

「小さな幸せ」をひたすら明るく歌いあげた長調(メジャー)の「瀬戸の花嫁」は、じつはこの国の基盤である農業農村つぶしの序曲であり、当のミカン農家にとっては物悲しい短調(マイナー)に聞こえ、歌う気にはなれなかったのではないか。

 そのことに当時の私たち日本人はまったく気づかなかった。そして、今もなお、私たちはそれに気づくことなく、能天気にも結婚披露宴というと定番の「瀬戸の花嫁」を歌い続けている。

(この項つづく)


著者:前田 和男(ノンフィクション作家)

1947年東京生まれ。日本読書新聞編集部勤務を経て、ノンフィクション作家、『のんびる』(パルシステム生協連合会)編集長。著書に『昭和街場のはやり歌』『続昭和街場のはやり唄』(ともに彩流社)。

*本連載は、季刊地域WEBにて毎月掲載されます。本誌では3回分を一部要約してお届けします。


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農文協 編
遊休農地の活用策を探るシリーズの第3弾。 「誰が?」では、下限面積が廃止になった影響を検証。これまで農地を持たなかった人が小さい畑を取得する動きが各地で生まれている。農家も農地も減少しているが、兼業・多業による小さい農業が新しい「農型社会」をつくる事例を。 「なにで?」は農地の粗放利用に向く品目を取り上げた。注目はヘーゼルナッツ。 「どうやって?」コーナーでは、使い切れない農地を地域で活かすために使える制度・仕組みを取り上げた。
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