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【唄は農につれ農は唄につれ 第10回】「赤とんぼ」は日本人の心のよりどころ

『季刊地域』vol.57から始まった連載は、このウェブサイトで毎月更新します。誌面ではその3回分を1回にまとめて別連載として続きます。どちらもお楽しみください。

前田和男(ノンフィクション作家)

砂川闘争の勝利をもたらした「赤とんぼ」の大合唱

 童謡として誕生した「赤とんぼ」だが、いつしか国民的共感を呼び起こす不思議なパワーを身に着けるようになった。本項の最後では、二つの歴史的な事件にまつわるエピソードを紹介して、これについて検証しよう。

 一つは、1955年に東京は三多摩の砂川町(現・立川市)で起きた「砂川闘争」である。
 英米との戦争が終結、7年間にわたるGHQの占領から独立を果たして3年。ようやく平和が訪れたかに見えたのも束の間、東西冷戦の激化を受け、日本は在日米軍から全国5カ所の飛行場の拡張を突きつけられる。その一つが米軍が駐留する立川基地であった。農民たちは学生・労働者の支援を受けてこれに抵抗。土地収用予定のイモ畑で、武装した警官との血みどろの攻防が繰り返され、翌56年10月の天王山の激突では、3000人の学生のうち半数近くが負傷、多くの逮捕者を出し、マスコミは「流血の砂川」と報じた。

「砂川事件」(2024年12月13日 (金) 08:51 UTCの版) 『ウィキペディア日本語版』より

 ところが、どうしたわけか武装警官は突入をあきらめて撤退。翌日、日本政府は測量中止を決定。農民側の勝利に終わる。これをもたらしたのは、なんと童謡の「赤とんぼ」だった。

 対決が頂点に達したとき、学生たちの間から「赤とんぼ」の歌声がわきおこり、やがてそれは大合唱となって、警官の突入を逡巡させたのである。

 当時、砂川へは西武新宿線が便利なこともあって、起点の新宿にあった歌声喫茶の草分け「ともしび」は、闘争に参加する学生たちのたまり場になっていた。天王山に居合わせた「常連」の一人が、往時を振り返ってこう書き残している。

「小雨降る中、抵抗闘争が展開された。マスコミの報道でも、『砂川に荒れ狂う警官の暴行』『警棒の雨』『突き破られたスクラムの壁』などなど言語に絶するものがあった。この日の闘いの中で印象に残るものは、闘いの合間に自然発生的に合唱された『赤とんぼ』『カラスなぜ鳴くの』『ふるさと』であり、警官の良心をとりもどすものであった」(『「うたごえ喫茶ともしび」の歴史-歌いつづけた65年間』(大野幸則著、唯学書房、2019)

合唱は指導者による戦術転換だった?

 この証言にもあるように、以来、砂川闘争の「赤とんぼ」をめぐるエピソードは、「自然発生的出来事」として語り継がれてきたが、じつはそうではなかった可能性がある。

 当時全学連の砂川闘争委員長として現場を指揮し、後に政治評論家に転身する森田実は、約半世紀後に朝日新聞の伊藤千尋記者のインタビューに、「今だから話しましょう」と応じてこう語っている。

「警官があと半歩出れば私たちは負ける状況で、獰猛な相手を人間的な気持ちにさせようとした。勇ましい『民族独立行動隊』を歌えば警官も勢いづける。そこで『赤とんぼ』を選び、日没までの30分、繰り返し歌った。警官隊は突撃して来なかった。私たちは人道主義で戦った。警官にも純粋な気持ちがあった」(唄「赤とんぼ」と砂川闘争―1953&1956―先輩たちのたたかい)

『民族独立行動隊』とは、米国占領下の1950年、朝鮮戦争の勃発を受けて吹き荒れた“赤狩り(レッドパージ)”に一人の青年労働者が抗議、職場である国鉄大井工場の煙突に3日間たてこもって書き上げた伝説の「国産革命歌」だ。こんな勇猛果敢な歌詞で、様々な闘争のなかで愛唱されてきた。

♪民族の自由を守れ
 決起せよ祖国の労働者
 栄(は)えある革命の伝統を守れ
 血潮には正義の血潮もてたたきだせ
 民族の敵国を売る犬どもを
 進め進め団結かたく
 民族独立行動隊前へ前へ進め

 この「民族独立行動隊の歌」はテンポがよく士気が上がる。警官隊へ突っ込む前に意思を統一して気合いを入れるにはもってこいなので、砂川闘争でも繰り返しうたわれデモ隊を大いに鼓舞してきた。しかし、この天王山のときに限っては歌われなかった。先のインタビューにあるように、それが現場を指揮した森田による「戦術転換」だとしたら、じつに見事な判断というほかない。

デモ隊も警官隊も農村の原風景を共有していた

 数日後、「赤とんぼ」の大合唱の中でデモ隊と対峙し続けた警官の一人が自死する。それを報じた新聞記事には「〝砂川出動〟苦に自殺、警視庁予備隊の巡査」の見出しと共に「砂川問題で人生観が大きく変り、将来の不安に耐えられぬ」との本人の遺書の一部が抜粋されていた(朝日新聞56年10月22日朝刊)。

 ちなみに砂川闘争が勃発した55年の日本の農業人口は2000万人をわずかに切り、総人口の2割を超えていた。おそらく学生たちも警官たちも、田んぼに赤とんぼが乱舞する原風景の中で幼少年期を過ごした共通体験から、米軍の基地にされる砂川のイモ畑は彼らの故郷と重なったのではないだろうか。

「赤とんぼ」の大合唱が日本政府に強制測量を断念させた3年後の59年、東京地裁は、一連の砂川闘争で逮捕・起訴された参加者全員に無罪を言い渡した。根拠は「そもそも日本政府が米軍に駐留を許しているのは戦力の保持を禁止している憲法に違反する」。裁判長の伊達秋雄の名から「伊達判決」と呼ばれた画期的判断は、翌年に控えていた戦後最大の政治決戦「日米安全保障条約批准反対闘争」、世にいう「60年安保」を盛り上げるのに一役も二役も買った。

 1年以上にわたった抗議行動には、全国6000カ所の集会やデモにのべ560万人もが参加。6月15日には全学連が国会南通用門に突入、東大生樺美智子が死亡。これを受けた国会での承認をめぐる最終局面の6月19日には、33万人ものデモの輪が十重二十重に国会を取り囲み、岸信介首相は退陣に追い込まれる。

 しばしば歴史ではバタフライエフェクトが起きる。「赤とんぼ」もその典型だった。

妻の歌声が支えた阪神淡路大震災の生還劇

 砂川闘争から40年、また一つ「赤とんぼ」がもつ国民的共感力が発揮される出来事が起きた。

 95年1月17日、阪神淡路地域をおそったマグニチュード7.3の巨大地震の最中のことだった。5000人を超える死者のうち、9割が家屋倒壊の下敷きによる圧死。6割近くが60歳以上の高齢者で、生存救出率はきわめて低かった。

 災厄発生翌日の新聞各紙には、1000人近くが生き埋めにされ、夜を徹した必死の救出作業が報告されている。そんな阿鼻叫喚の中、朝日新聞は、「歌声で支え合い生還」「やみの中、頼りは妻の『赤とんぼ』」の見出しを掲げて、心温まるエピソードを紹介している(95年1月18日「朝日新聞」夕刊)。

 神戸市東灘区の市営住宅では10階建ての4階部分が押しつぶされ、11世帯16人が狭い隙間に閉じ込められた。そのうちの一人、高上巧さん(当時65歳)は、天井が顔から1mほどの近くまで落下、左手がわずかに動かせる程度。「このまま死んでしまうかもしれないかもしれない」と絶望感に襲われた時、妻の和子さん(54)の歌声が聞こえてきた。和子さんもベランダ近くに開じ込められていた。周りから人の声がした。元気づけなけなければと思わず口をついて出たのが「♪夕焼け小焼けの赤とんぼ」。和子さんは10時間ほどで救出されたが、夫の巧さんはそれからさらに10時間も隙間30cmの空間に閉じ込められた。東京消防庁のレスキュー隊によって担架で運び出された時、巧さんの口をついて出たのは、「妻の赤とんぼの歌声が心の支えになった」だった。

防災の一環としても赤トンボの復活を

 地震大国日本。向こう30年以内に7割の確率で巨大地震が発生するとの予測から、防災・減災が叫ばれている。より高く頑丈な堤防や数十mもの避難タワーが築かれるなど様々な施策が打たれているが、ハードウェアの強靭化だけでは歴史的災厄を乗り切ることはできない。心のよりどころが不可欠なことは、先に掲げた阪神淡路大震災のエピソードからも明らかだ。

 しかし、次の大災害がやってきたとき、わが「赤とんぼ」は神戸の夫婦を支え合った役割を果たしてくれるだろうか。多くの日本人にとってもはや赤トンボは国民共通の共感を呼び起こす原風景でなくなって久しいいま、それは期待できそうにない。

 じつは、かつて「♪夕焼け小焼けの赤とんぼ」は、農村だけでなく都会の原風景でもあった。東京の下町で洋食屋を営みながら東京の懐かしい風景写真を撮り続けている秋山武雄さんは、赤トンボにまつわる思い出を新聞に寄せている。

「私が小学校高学年だった戦争直後、夏から秋にかけて浅草橋の空は赤トンボだらけだった。小岩、新小岩あたりは沼地がいっぱいあり、そこで生まれたトンボが飛んでくるんだ。電線はトンボでびっしり。止まりきれずに『どいてどいて』と電線の上でケンカしていたよ。トンボが『湧いていた』という言い方がぴったりだった」(読売新聞2013年9月13日朝刊)

 赤トンボはきれいな水辺さえあれば生息できる。防災対策の一環としても、赤トンボを、田んぼだけでなく大都会のウォーターフロントに再び呼び戻さなければならない。

(この項終わり)


著者:前田 和男(ノンフィクション作家)

1947年東京生まれ。日本読書新聞編集部勤務を経て、ノンフィクション作家、『のんびる』(パルシステム生協連合会)編集長。著書に『昭和街場のはやり歌』『続昭和街場のはやり唄』(ともに彩流社)。

*本連載は、季刊地域WEBにて毎月掲載されます。本誌では3回分を一部要約してお届けします。


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農文協 編
遊休農地の活用策を探るシリーズの第3弾。 「誰が?」では、下限面積が廃止になった影響を検証。これまで農地を持たなかった人が小さい畑を取得する動きが各地で生まれている。農家も農地も減少しているが、兼業・多業による小さい農業が新しい「農型社会」をつくる事例を。 「なにで?」は農地の粗放利用に向く品目を取り上げた。注目はヘーゼルナッツ。 「どうやって?」コーナーでは、使い切れない農地を地域で活かすために使える制度・仕組みを取り上げた。
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