『季刊地域』vol.57から始まった連載は、このウェブサイトで毎月更新します。誌面ではそれをまとめて別連載として続きます。どちらもお楽しみください。
前田和男(ノンフィクション作家)
ニュース映像が伝える食糧欠配のリアル
「米騒動と歌」の2回目は、敗戦直後の「米よこせ騒動」とそれを煽りたてた歌たちを取り上げる。
まずは、どのような「騒動」だったのかを、当時の報道から再現・素描してみよう。
まだテレビ放送が誕生していない当時の社会の実相を今に伝える貴重な映像資料がある。日本映画社がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の検閲のもとに制作、毎週全国の映画館で本編前に流された正味10分ほどの「日本ニュース」だ。1946(昭和21)年5月下旬に制作・上映された第19号は、「食糧難突破に起ち上る民衆」と銘打ち、こんなナレーションと関連映像ではじまる。
「食糧の欠配遅配は今や全国の大都市を襲い、闇も買い出しもできない人たちは毎日雑草を食べてその日を暮らしている始末です。一方、各地には隠匿された食糧がまだたくさんあると見なされ、配給の組織を正して早く公平に食わせろと、各地の民衆は一斉に立ち上がりました」
そして、東京小岩の「米よこせ区民大会」にはじまり、世田谷の主婦によるプラカードデモ、「元気で働けるだけ食わせろ」と叫ぶ品川の労働者、学童配食を叫ぶ荏原の子連れの親たち……と都内各地の多様な動きが映し出される。
だが、これらは前段の小エピソードにすぎない。
同時期の「東京裁判再開」と「吉田内閣成立/民主議会開く」という戦後史の大事件を報じた後に、この「米よこせ騒動」の急成長が続報として活写される。
「飢え死の危険は目の前に迫っている。それなのに反動勢力は見て見ぬふりをしていると飢えた帝都市民25万は、19日赤旗の波をもって再び宮城前を埋め尽くしました」の語りによって、皇居前広場の「飯米獲得人民大会」(通称「食糧メーデー」)の熱気とともに、乳飲み子を背負った母親の「おっぱいもでない」の必死の訴えや、万余の参加者による国会や政府機関への延々たるデモ行進の映像が流される。


食糧メーデー不敬事件
しかし、「日本ニュース」は往時の「米よこせ騒動」の深層にある真相を完全には伝えきってはいない。おそらくGHQからの要請と思われるが、ある「大事件」が報道されていないからだ。
いわゆる「食糧メーデー不敬事件」である。
日本共産党員の松島松太郎が、表面には「朕はタラフク食ってるぞナンジ人民飢えて死ね」、裏面には「働いても働いても何故私達は飢えねばならぬのか 天皇ヒロヒト答えて呉れ」と記したプラカードを掲げてデモに参加。当局は松島を「不敬罪」容疑で逮捕するが、GHQは「天皇といえども特別の保護を受けるべきではない」として、日本政府に圧力をかけ、名誉棄損罪の訴追に変更させ、松島は6カ月後の11月に恩赦で釈放される。

今から考えると奇異に思えるかもしれないが、松島ほど過激ではないものの、この年の1月に「人間宣言」をした天皇に「窮状を訴える」という姿勢は食糧メーデー参加者の総意であった。GHQもこの民意に配慮したものと思われる。
これに対して、天皇は、5日後の5月24日には、ラジオで次のような「おことば」を発している。
「祖国再建の第一歩は、国民生活とりわけ食生活の安定にある。全国民においても、乏しきをわかち苦しみを共にするの覚悟をあらたにし、同胞たがいに助け合って、この窮状をきりぬけねばならない」
婦人参政権が認められた新選挙法下の総選挙で首班指名を受けた吉田茂首相は、この天皇の「おことば」を受けて、アメリカからの食糧支援の約束を取り付け、事態改善への動きを加速させる。これにより敗戦直後の米騒動は収束へと向かう。
以上の経緯から、食糧メーデーが単なる「米よこせの抵抗運動」ではなかったことは明らかであろう。
GHQの介入と天皇の「おことば」で事態が収束へと向かったことは、国家権力と民衆との関係が新しく仕切り直されたことを意味していた。一方で、それによって「声を上げれば社会は変わる」という意識を国民大衆に目覚めさせることにもなった。
戦前の「黙って耐える時代」から戦後の「声を上げる時代」へ。これによりそれまで政治に無関心だった国民大衆が、自らの生活を守るために政治に関与し始めたという意味で、敗戦直後の「米よこせ騒動」は戦後民主主義の出発点だったといえよう。
「米よこせ騒動」を煽った革命運動歌
なお、「日本ニュース」第19号の最後は、気勢をあげるデモ行進とともに、こう結ばれている。
「(食糧メーデーによって)吉田内閣の流産さえ伝えられ、保守陣営に対する人民戦線の実力は今やようやく巨大なものとなるにいたりました」
「人民戦線」とは、ヨーロッパで生まれたファシズムと戦争に反対する諸勢力による「共同連携運動」のことで、戦前と戦後の日本でも試みられた。
それにしても、「米よこせ」で始まった「騒動」はそれで終わらずに、人民戦線政府の樹立をめざすまでの盛り上がりをみせたのは、いったいなぜだったのか?
当時の運動をリードした日本共産党の巧みな戦略戦術が「飢えた大衆」の心をつかむのに奏功したからなのか。
それもあったろうが、それだけでは「小火」で収まっていただろう。じつは「小火」を「大火」に煽りたてたものがあった。それは、戦前の「社会運動冬の時代」に弾圧を受けそれを耐えしのんだ3曲の革命運動歌――「赤旗の歌」「インターナショナル」「メーデー歌」である。
では、それらの歌たちが敗戦直後の米騒動の中で、それをどのように煽りたてのか、順次検証してみよう。
皇居にこだました赤旗の歌声
まずは「赤旗の歌」である。
オリジナルは、アイルランド人社会主義者、ジム・コンネル(1852~1929)が、1889年12月、イギリスはロンドンの港湾労働者による大ストライキに触発されて作詞。ドイツ民謡の「もみの木(オー、タンネーンバーム)」のメロディで歌われて現在に至っている。
訳詞は、日本共産党創設に加わり、後に獄中で転向する赤松克麿(1894~1955)が手掛けたものがもっともよく知られている。
以下に赤松訳の1番の歌詞を掲げる。
♪民衆の旗 赤旗は戦士のかばねをつつむ
しかばね固く 冷えぬ間に 血潮は 旗を染めぬ
高く立て 赤旗を その影に 死を誓う
卑怯者 去らば去れ われらは 赤旗守る
この「赤旗の歌」は敗戦直後の米騒動をどう煽ったのか?
「日本ニュース」では、食糧メーデー前段ののろしとなった、5月14日正午宮城前坂下門での集会風景をこう伝えている。
「応援のデモは刻々増加し、赤旗の歌は日本歴史あって以来、初めて大内山にこだましました」
「大内山」とは「内裏」などと同じく「皇居」の歴史的呼称のひとつ。そして「日本ニュース」の最後を締めくくる「保守陣営に対する人民戦線の実力は今やようやく巨大なものとなるにいたりました」のナレーションとともに流されたBGMもまた、参加者が大合唱する「赤旗の歌」であった。
「起て飢えたる者よ」と庶民の思いを代弁
続いては「インターナショナル」である。
19世紀後半にフランスで誕生した労働者のための革命歌で、1922~44年までは旧ソ連の国歌としても使用され、いまも国際的な左翼運動のシンボルソングとして歌い継がれている。
日本では1922年、共にプロレタリア演劇運動の中心的存在だった、佐々木孝丸(1898~1986)と佐野碩(1905~66)の「共訳」によって、社会主義に傾倒する労働者や学生の間でひそかに歌われるようになった。
以下に1番の歌詞をかかげる。
♪起て飢えたる者よ 今ぞ日は近し
醒めよ我が同胞(はらから) 暁は来ぬ
暴虐の鎖 断つ日 旗は血に燃えて
海を隔てつ我等 腕(かいな)結びゆく
いざ闘わん いざ 奮い立て いざ
あぁ インターナショナル 我等がもの
しかし当局は「インターナショナル」を危険思想の象徴とみなし、歌うことを禁止。それでも一部の労働者・学生たちはメロディだけをそっと口ずさんだが、それさえも弾圧の対象となり、やがては身振り手振りだけでその思いを表現するようになったという。こうしてこの革命運動歌は「社会運動の冬の時代」を耐え抜き、再び仲間たちと心おきなく合唱できるようになったのが、敗戦直後に起きた「米よこせ騒動」だった。
振り返れば、この歌の冒頭「♪起て飢えたる者よ 今ぞ日は近し」ほど、当時の庶民の切実な思いを代弁した歌詞はない。それが「米よこせ騒動」を煽りたてたのは必然だったといえよう。
品川区が当時の証言などを編纂した「しながわデジタルアーカイブ」の「米よこせ運動」の項には、次の記述がある。
「5月14日、これを聞いた品川・荏原の区民たちも加わって、全都から600名を超える民衆が赤旗を押し立てて、インターナショナルの歌を高唱しながら坂下門外に坐りこんだ。かつてないできごとだった」
軍歌の替え歌が労働運動歌に
最後はメーデー歌である。これは前の2曲とちがって、「純国産」のうえに「軍歌」の替え歌という点で対照的である。
作詞は鉄工所の労働組合員。メロディは軍歌「小楠公」(作曲:永井建子、明治32年)を“親歌”とする「歩兵の本領」(作詞:加藤明勝、明治44年)からの借用。1920年(大正9)年5月2日、日本初のメーデーが上野公園で開催された際に発表された。
以下に1番2番3番の歌詞を掲げる。
♪聞け 万国の労働者
とどろきわたるメーデーの
示威者(じいしゃ)に起こる足どりと
未来をつぐる鬨(とき)の声
♪汝の部署を放棄せよ
汝の価値に目醒むべし
全一日の休業は
社会の虚偽をうつものぞ
メロディを借用した「歩兵の本領」の以下の歌詞と比較対照すると興味深いことが見えてくる。
♪万朶(ばんだ)の桜か 襟の色
花は吉野に嵐吹く
大和男子(やまとおのこ)と生まれなば
散兵線の花と散れ
♪尺余の銃(つつ)は武器ならず
寸余の剣(つるぎ)何かせん
知らずや 此処に二千年
鍛え鍛えし大和魂(やまとだま)
♪軍旗まもる武士(もののふ)は
全て其の数二十万
八十余ヶ所に屯して
武装は解かじ夢にだも
「歩兵の本領」の「大和魂を鍛えて」「軍旗を死守せよ」に対して「メーデー歌」は「自らの価値に目覚めて」「部署を放棄せよ」と価値観の逆転を提起、軍歌と同じ旋律を共有することで、その効果をより際立たせるのに成功している。それが敗戦直後の「米よこせ騒動」を煽りたてるのに大きな役割を果たしたことは間違いないだろう。
前掲の品川区の「しながわデジタルアーカイブ」の「米よこせ運動」の項には次のくだりがある
「皇居前広場は25万の大群衆で埋められた。二重橋を背景に、3台のトラックを並べた演壇に、つぎつぎと弁士が立って飢餓を訴え、食糧危機突破を訴えた。赤旗が揺れ、メーデー歌が津波のようにとどろいた」
レッド・パージで鎮火
こうして敗戦直後の「米よこせ騒動」は、三つの革命運動歌によって「小火」から「大火」へと煽りたてられ、戦後民主主義の出発点となった。
しかし、それはわずか5年で一気にしぼんでその歌声もかき消されてしまう。転機となったのは戦後5年目の1950年を前に突然吹き荒れた“赤狩り(レッド・パージ)”だった。
当初GHQは日本の民主化の一環として労働組合をふくむ左翼運動を容認・推奨していたが、「米よこせ騒動」による運動の急進化に警戒感を抱くようになる。そして、1950年朝鮮戦争の勃発によって東西冷戦が激化したのを契機に、共産党の非合法化に乗り出し、共産党員であることを理由に職を奪われた人々は官民合わせて2万人とも3万人ともいわれた。太平洋をはさんでアメリカでも「マッカーシー旋風」が吹き荒れ、多くの左翼及びリベラル系の人々が「共産主義のシンパ」とされて職場を追放されたのと同期する国際的な動きであった。
これによって、戦後に火がついた社会運動は再び戦前同様の「冬の時代」を耐えなければならなくなる。それが息を吹き返すのは10年後の60年安保闘争からだが、時代のモードは高度成長による飽食と米余りへ、民衆をふるいたたせるテーマはもはや「米よこせ」ではなくなっていた。
にもかかわらず、それから数十年後に「米騒動」が再発する。それはなぜなのか? そこで歌たちはどのような役割を果たしたのか? その検証については次回に譲る。
著者:前田 和男(ノンフィクション作家)
1947年東京生まれ。日本読書新聞編集部勤務を経て、ノンフィクション作家、『のんびる』(パルシステム生協連合会)編集長。著書に『冤罪を晴らす 食肉界の異端児の激闘20 年』(ビジネス社)、『昭和街場のはやり歌』『続昭和街場のはやり唄』(ともに彩流社)。
*本連載は、季刊地域WEBにて毎月掲載されます。本誌ではその内容を一部要約してお届けします。