
『季刊地域』vol.57から始まった連載は、このウェブサイトで毎月更新します。誌面ではそれをまとめて別連載として続きます。どちらもお楽しみください。
前田和男(ノンフィクション作家)
食べないのによく知られている食材の謎
人類が古来食用としてきた動物は多種多様にわたるが、宗教や文化などを背景にエリアによっては食されないものがあり、当然のことながら、それらには当地では「しかるべき呼び名」もない。一例を挙げるとサンマ(秋刀魚)がそれで、日本と韓国・台湾以外の国では食卓に上らないため、当のサンマを見せられても、ごく一握りの魚類研究者なら「pacific saury」と専門用語で答えるかもしれないが、一般の人々は、英語圏であれば「この雑魚(trash fish)は何?」といって首を傾げるだけだろう。
ところが日本には、ほとんど食されないにもかかわらず、欧米におけるサンマとは違って、「しかるべき呼び名」があまねく知られている代表的家禽がある。
七面鳥だ。ちなみに七面鳥をもっとも食すのはイスラエルで、人口1人あたり年に約9.56kg。次いでカタール約6.97kg、アメリカ約6.95キロと続くが(*)、日本の年間消費量は先進国の中では最下位クラスのわずか数gにすぎない。おそらく多くの日本人は一生涯食べずにおわるのに、「呼び名」は誰もがよく知っている。よくよく考えるとなんとも不思議な食材なのである。
*出典: own editing based on the database of FAOSTAT (FAO, 2023)

GHQがフォークダンスを推奨したから!?
日本で七面鳥がいまなおほとんど食されていない理由としては、
▽明治5年の「肉食解禁」当初、食肉の主役は牛と豚だったが、昭和期における養鶏技術(ブロイラー)の確立発展により、鶏肉が庶民の常食に仲間入りする。焼き鳥、唐揚げ、水炊きなどの料理が開発され、供給体制も整えられて安価で手に入りやすいことから、七面鳥に出番が訪れなかった。
▽いっぽう七面鳥は脂肪分が少ないため、「ジューシーで柔らかい肉」を好む日本の食文化にはなじまない。また一羽丸ごと焼き上げるのが基本的料理法だが、そもそも日本の一般家庭のキッチンには大型のオーブンなどなかったし、今もない。
といったところだろうか。
このように七面鳥はほとんど食されていないのに、老若男女を問わず広く知られているのはなぜか?
当節流行りのさる生成AIに尋ねてみたところ、以下の「回答」が返ってきた。
「戦後、海外のドラマや映画や書籍などによって、クリスマスが家族団欒のあこがれの風物詩として紹介・受容されるなかで、食卓の中心をしめる七面鳥の丸焼きがそのシンボル・イメージとして定着したからと考えられる」
多くの読者は「なるほど」と納得されるかもしれないが、それでは「ボーっと生きてるんじゃねーよ」とチコちゃんに叱られるだろう。この人気番組に倣って、わが解答を謎かけふうに示すと、「日本人がほとんど食べないのに七面鳥を知っているのは、終戦直後GHQがフォークダンスを推奨したから」である。
はたして「正解」を言い当てていて「なんだ、つまんないやつだな」とチコちゃんをがっかりさせられるか、筆者の体験を下地にしつつ関連資料を探って謎解きを試みたい。
なお、わが説を開陳する前に指摘しておくと、AIが根拠とするクリスマスと七面鳥をめぐる海外からの情報が一般の日本国民にもたらされるのは1950年代以降。片や筆者の解答の根拠である「フォークダンスの推奨・導入」の時期は終戦直後で、前者よりも数年早い。それだけでもわが説のほうがすでに「優勢」である。
では、「七面鳥の丸焼きがクリスマスのシンボル・イメージとして定着したから」のAI説が誤りであり、「GHQがフォークダンスを推奨したから」のわが説が「正解」であることを検証することにしよう。
米軍情報将校の歌と踊りによる文化工作
1945年8月15日をもって、日本は、新たな為政者となったGHQから根本的なレジームチェンジを迫られる。それは、旧体制に君臨していた軍人・政治家の公職追放や財閥解体などの政治経済に始まり、教育・文化・ライフスタイルにまで至る、家屋にたとえると「改築」ではなく「解体・建て替え」の一大工事であった。
7年間にわたるGHQの対日占領事業は紆余と曲折と頓挫の連続だったが、最終的にそれを成功に導いた意外な施策をひらめいて成し遂げた人物がいた。
ウインフィールド・パンティネ・ニブロ(1912~2007)。42年に30歳でアメリカ陸軍に入隊、諜報部隊の特別エージェントとして、終戦3カ月後の45年12月に来日。その後退役し、軍属として46年7月に長崎軍政部教育課長に赴任。経歴からも、また広島と並ぶ被爆地が赴任地であるという点からも、ニブロが対日文化・教育政策に関わる裏工作に重要な任務を帯びていたことは疑いの余地がない。
長崎県の教育関係者との交歓の宴席で、ある教師が日本舞踊(おてもやんという説もある)を演舞。ニブロはその返礼として、来日前にアメリカで体育教師をしたときに生徒たちに指導していたフォークダンスを披露。そのとき流されたBGMは、ニブロが故国から持参したレコードに収められたアメリカ民謡の代表歌「藁の中の七面鳥(Turkey in the straw)」だった(世代によっては「オクラホマ・ミキサー」というフォークダンスに使われる曲といったほうがわかるか?)。ともに軽快で陽気な楽曲とダンスがあいまって座は大いに盛り上がったという。
これぞ、それまで日本人のほとんどが食べたことのない七面鳥が日本人の誰にも知られることになるきっかけだった。
さっそくニブロはこの体験からひらめた対日文化工作にとりかかる。まず体育教師たちにレッスンを施し、体育の授業の一環として子供たちにフォークダンスを教え始める。ニブロに習った生徒が今度は先生になって輪を広げ、ニブロが在県した2年ほどの間に、長崎県のフォークダンサー人口は3万~5万人を数えるまでになり、そのため長崎ではフォークダンスとは呼ばれず「ニブロダンス」と呼ばれたという。
この動きを受けて、早くも半年後の47年初頭には、文部省の役人が視察に訪れ、フォークダンスの教科書の作成を決定、さらに49年度の「学習指導要領小学校体育編(試案)」には教材例に取り上げられる。これにもGHQ中央の働きかけが強烈に匂う。
かくしてアメリカ発のダンスは、同じく同国生まれの民謡「藁の中の七面鳥」にはやしたてられながら、長崎を震源地にしてあっという間に全国に伝播。中学・高校の運動会や修学旅行先での生徒間の交流イベント、さらには青少年のレクリエーション活動の定番になっていくのである。

GHQの占領政策を支えたフォークダンス
これほどの短期間で広まったのには、フォークダンスによって欧米由来の男女平等や民主主義を流布・定着させたいGHQの後押しと、文部省やレクリエーション協会による普及活動もあったが、「藁の中の七面鳥」がBGMとして果たした役割が大きかったと思われる。
つい1年前は、「男女七歳にして席を同じくぜず」と教えた教師もそう教えられた生徒たちも、「民主主義の時代になったから、さあ男女仲良く手をとりあって踊りましょう」には大いなる逡巡があったはずである。しかし、カントリー調のコミカルで明るい2拍子の曲調は、そんな逡巡を吹き飛ばし、「男女で手をつなぐ」心理的なハードルを劇的に下げる役を果たしたに違いない。
フォークダンスが普及するなかで、新たな踊り方のバージョンが導入され、それにともなってBGMには、「藁の中の七面鳥」のほかにも、イスラエル生まれの「マイムマイム」、ロシア民謡の「コブロチカ」などが使われるようになるが、いずれも力不足の感はいなめない。
私自身もそうだが、戦後に公教育をうけた日本人にとって、フォークダンスというと、まず頭に流れ始めるのは「藁の中の七面鳥」の軽快なメロディであることが、なによりの証拠である。
もし、GHQがニブロの提言をうけてフォークダンスの普及を企図しても、BGMの主役が「藁の中の七面鳥」でなかったらどうなっていただろうか?
ちなみに戦後の教育の民主化の基礎的装置として男女共学化が導入されたが、あの「藁の中の七面鳥」のうきうきするメロディなくしては、心理的な「男女の壁」を壊すにはインパクトに欠けたことだろう。その結果、女性の社会参加が抑えられ、戦後日本の社会システムの転換に遅延と頓挫を招いたはずである。
そう考えると、「藁の中の七面鳥」は「たかがアメリカ発の新手のダンスの普及」に一役買ったどころか、GHQの対日占領政策にとって公職追放や財閥解体よりも貢献したといえるかもしれない。まさに勲一等といってよかった。
ニブロは48年11月に長崎から札幌の軍政部教育課長に転勤となり、そこでもフォークダンスの普及に熱心に取り組み、50年に離日する。帰国後、アメリカ外務省に入省し25年間外交官として勤務するが、それは、反米の拠点となってもおかしくなかった被爆地・長崎を皮切りに日本全国の若者をフォークダンスによって〝親米〟にした論功行賞だったのかもしれない。
日本のクリスマスはチキンが定着
さて、ニブロが日本を去ったあと、彼が産み落としたフォークダンスはどうなったのか? そして、それとセットになったBGMによって「食べもしないのに知られるようになった七面鳥」の受容と認知度はどうなったのか?
ニブロが離日して二十余年、GHQの占領から独立した日本が高度経済成長を果たしてもっとも輝いていた70年代に起きた経済事件によって、それは検証されることになった。
アメリカ発のファストフードチェーンが上陸。その雄の一つケンタッキー・フライド・チキンは、「クリスマスにはチキンを」とうたった一大キャンペーンを展開し成功を収める。以後、日本では「クリスマスのメインディッシュはチキン」が定着する。七面鳥からすると、それは食材としての出番の最後の望みを断たれたに等しかった。つまり、「七面鳥はクリスマスのシンボル・イメージとして定着した」というAI説の前提根拠はこれで完全にご破算になったのである。
いっぽう、わが「フォークダンス説」はどうか?
たしかに「日本のクリスマスにはチキンを」はキャンペーンとしては成功を収めはしたが、それによって日本では、西欧におけるサンマのように、七面鳥が「雑魚ならぬ名もなき“雑鳥”」として消え去ることはなかった。それは終戦直後から公教育の場で「藁の中の七面鳥」がフォークダンスのBGMとして流され続けたことで老若男女の閾域下に「七面鳥」が刷り込まれていたからであろう。
どうやらこれで、わが仮説「ろくに食べもしないのに七面鳥が知られているのは、終戦直後GHQがフォークダンスを推奨したから」は、チコちゃんから「なんだ、つまんねえやつだな」と「正解」のお墨付きを得られそうだ。
フォークダンスは思春期の「ヰタ・セクスアリス」?
これに意を強くして、同窓の集まりで話題にしたところ、はからずも青春時代のフォークダンス体験に花が咲いた。
「中学校が戦前男子校だったのでクラスでは男子のほうが多く、男子とペアになって女子とは踊れなかったのはいまだに悔しい」「あと2組で憧れの女子と腕を組めると胸をときめかせていたら、教師から『はい、そこで逆回り!』の指示がとんで淡い望みが絶たれたのは恨めしい」などと思い出はつきない。
そこで、はたと気づかされた。フォークダンスの効用は、ニブロとGHQが目論んだ男女平等の具現化による占領政策の円滑的遂行だけではない。性に目覚める少年少女期の甘酸っぱい思い出の共有効果もあったのだ、と。
なぜろくに食べもしないのに七面鳥が知られているのか?
すでに指摘したようにBGMの「藁の中の七面鳥」のうきうきするメロディ効果も間違いなくあったが、それに加えて「思春期のヰタ・セクスアリス効果」もあったのである。
そこで「日本人がほとんど食べないのに七面鳥を知っている」理由を、当初は「終戦直後GHQがフォークダンスを推奨したから」としたが、それにこう付け加えたい。「(藁の中の)七面鳥が甘酸っぱい思春期の思い出の素にもなっているから」。
ひとあたりヰタ・セクスアリス談義が出つくしたあと、七面鳥の認知度にかかわる重大なやりとりがあった。ある友人が「孫の運動会に参観に行ったがフォークダンスはなかった」というと、別の友人が「俺もそうだ」と応じた。
七面鳥は“雑鳥”として消えゆく?
調べてみると、たしかに昭和の終わりから平成にかけて、運動会の定番だったフォークダンスは敬遠され始めていた。それに追い打ちをかけたのが、2012年度から体育の授業で始まった男女共習の「ダンス」の必修化である。
生活や文化の変化に合わせて、生徒が主体的に関心と親しみを持って運動やコミュニケーションを楽しめるようにと、「フォークダンス」は「(ヒップホップなどの)現代的なリズムのダンス」と「創作ダンス」を加えた三択の一つに位置づけられることになった。これにより、教員も生徒たちも関心は「現代的なリズムのダンス」に大きく傾き、フォークダンスが選択されることは激減しているという。
おそらくこの傾向は今後ますます加速するだろう。その結果、七面鳥は「名もなき“雑鳥”」として消え去る運命なのかもしれない。
これまで、本稿では「日本では戦後一貫して、七面鳥はほとんど食されていないのに、老若男女を問わず広く知られている」と記してきたが、もはや「若者」は除外しなければならないようだ。
たしかに、「現実の生活に体育教育も合わせるべき」というのは一般論では賛成だが、このまま「フォークダンスの自然消滅」を黙過していいものだろうか。年をとってからしみじみと思い出す甘酸っぱい思春期の体験の素を奪ってほしくないからだ。
所管する国と文部省には、フォークダンスとそれに伴走してきた「藁の中の七面鳥」の保護対策をうながしたい。
著者:前田 和男(ノンフィクション作家)
1947年東京生まれ。日本読書新聞編集部勤務を経て、ノンフィクション作家、『のんびる』(パルシステム生協連合会)編集長。著書に『「カチューシャ」とウクライナ戦争 いま甦るプーチンの“笛吹き歌”』(彩流社)、『冤罪を晴らす 食肉界の異端児の激闘20年』(ビジネス社)ほか。
*本連載は、季刊地域WEBにて毎月掲載されます。本誌ではその内容を一部要約してお届けします。