『季刊地域』vol.57から始まった連載は、このウェブサイトで毎月更新します。誌面ではそれをまとめて別連載として続きます。どちらもお楽しみください。
前田和男(ノンフィクション作家)
歌のモチーフではカキよりもクリ

秋の味覚の代表といえばカキ(柿)とクリ(栗)だろう。ちなみに両者の日本人一人あたりの年間消費量(生産量に輸入量を加えたもの)を比較すると、カキの年間消費量は約1350g、かたやクリのそれは約152g(いずれも2024年度、農林水産省調べ)と、カキのほうがクリよりも9倍近くも多い。ところが、それらをテーマにした歌となると両者の位置は逆転する。
ちなみに「カキの歌」で知られているのは、
♪春には柿の花が咲き 秋には柿の実が熟れる 柿の木坂は駅まで三里~
の「柿の木坂の家」(唄:青木光一、作詞:石本美由起、作曲:船村徹)だが、それとて終戦から12年後の1957(昭和32)年のヒット歌謡。筆者も小学校高学年時代にラジオから流れてきたのを覚えてはいるが、戦後生まれが全人口の9割を超える現在の日本人には「懐メロ」ですらない。
いっぽうクリをテーマにした歌はというと、
♪栗の実 にてます いろりばた
の童謡「里の秋」(唄:川田正子、作詞:斎藤信夫、作曲:海沼實、45〈昭和20〉年発表)。
♪大きな栗の木の下で あなたとわたし たのしく遊びましょう
の「大きな栗の木の下で」(イギリス民謡 Under the spreading chestnut treeをもとにした童謡。戦後日本に進駐した米軍関係者たちが口ずさんでいたのがオリジンとされる)。
これに、クリの親戚筋にあたる木の実をテーマにした歌を加えると、
♪お池に はまって さあたいへん
の童謡「どんぐりころころ」(作詞:青木存義、作曲:梁田貞、大正年間発表)。
これら3曲は、いずれもはるか大正時代から終戦直後の生まれにもかかわらず、「柿の歌」 の代表歌である「柿の木坂の家」とちがって、いまだに日本人の老若男女に知られて口ずさまれている。
秋の味覚の代表であるカキとクリの歌をめぐるこの落差は、いったい何に由来するのだろうか?
今回から3回にわたって、上記の歌たちを手掛かりにして、その謎の拠って来るところにせまってみたい。
結論を先に記すと、クリが私たち日本人の中にある「縄文の血」をうずかせるからではないか。
推論は以下のとおりである。
戦争の弥生、平和の縄文
ながらく縄文人は移動する狩猟採集民と思われていたが、1992年から始まった青森県は三内丸山遺跡の発掘によって、縄文人も弥生人と同じく、農耕による定住生活をしていたことが明らかになった。およそ6000~4000年も前のことである。
縄文人に日本史の常識を覆す生活様式の転換をもたらしたものこそクリだった。彼らは弥生人のイネと同じくクリを植えて秋に収穫。保存性が高く栄養価もあるクリのおかげで定住生活が可能になったものと推察される。
ここで重要なのは、クリがもたらした農耕定住生活が、縄文人に「平和」を享受させたことである。今から3000年ほど前に、森林資源管理の限界と資源の枯渇でクリによる農耕定着生活ができなくなり、縄文人たちは日本全国へと散ってしまう。その後、日本人のルーツとなる弥生人が渡来、米作によって人口を飛躍的に増やしたが、それが原因で戦争が頻発するようになる。
それは、吉野ケ里遺跡など弥生人の墳墓と三内丸山遺跡に埋葬された人骨の違いに明らかである。弥生人の遺跡からは、戦闘で矢じりが刺さった人骨が、また逆茂木(さかもぎ)や濠(ほり・ごう)などの戦闘用構造物が数多く確認されており、中国の『魏志倭人伝』に「倭国大乱」と記された弥生後期の内戦が「史実」であったことを裏づけている。

いっぽう三内丸山など縄文時代の遺跡からも傷のある人の骨は見つかってはいるが、いずれも狩猟事故が原因で、戦争によるものとはみなされていない。
上記のことから、クリは縄文人に平和を享受させ、米は弥生人に戦争をもたらした、といってもいいのではないか。
振り返れば、およそ1万年も続いた縄文時代には、人が人を殺す戦争はなかったが、弥生人が渡来してから現在に至る約3000年間は、260年の徳川時代と戦後の80年間を除けば、死屍累々の戦闘の連続であった。
理化学研究所などの研究グループや東京大学の研究グループの最新研究によると、現在の日本人全体のDNAは約10~20%が縄文人由来と推定されている。その割合は沖縄や北海道(アイヌ系)では20~30%以上と高く、本州中部~西日本では10%前後と比較的低めである。いまだ、私たちの中に縄文人は生きているのである。
日本人が、自国の生産量の3割以上のクリを海外から輸入してまで食し、そして歌のモチーフにもしているのは、わが内なる縄文人が呼び起こす「平和で安寧な暮らし」への郷愁のなせるわざなのではないだろうか。
「お蔵入り」から蘇った「里の秋」の元歌
以上の考古学的知見による「クリと縄文人をめぐる仮説」を、さらに歌によって補強してひもといてみたい。
その歌とは、冒頭で紹介した童謡「里の秋」である。
1番の2節めの「♪おせどに木の実の落ちる夜(よ)は」の「木の実」とはもちろんクリであることが、それに続く「♪栗の実煮てます いろりばた」で明らかになる。そしてクリはもう一たび、3番に登場する。「♪ああ とうさんの あのえがお 栗の実たべては おもいだす」。したがって、この歌の「隠された主役」はクリといっていいだろう。
それでは、クリをモチーフにしたこの童謡を手掛かりに、推論をさらに進めよう。ここでキーワードとなるのは、先に指摘した「クリは縄文人に平和を享受させた」ことである。
じつは「里の秋」は、その「クリと平和の関連性」を象徴する興味深いエピソードに彩られている。
そもそもこの歌のオリジンは、太平洋戦争が勃発した1941(昭和16)年、すでに教師兼業の童謡作詞家として名をなしていた斎藤信夫(1911~87)が「星月夜」として作詞したものである。1番と2番は「里の秋」と同じだが、それには次のような3番と4番があった。
♪きれいなきれいな 椰子の島 しっかり守って くださいと
ああ とうさんの ご武運を 今夜もひとりで 祈ります
♪大きく大きく なったなら 兵隊さんだよ うれしいな
ねえ かあさんよ 僕だって かならずお国を まもります
「椰子の島 しっかり守って」の歌詞からして、南方戦線の兵隊たちを銃後で鼓舞する内容で、戦時下の時局に応えた詞であることは明らかであろう。
斎藤はこれを、「お猿のかごや」(1939年)や「からすの赤ちゃん」(1938年)の国民的童謡の作曲で名声を確立していた海沼實(1909~71)に送ったが、海沼が曲をつけることはなかった。

http://www.hananozaidan.or.jp/tan51_1.html
引揚者慰撫のラジオ番組の挿入歌で大ブレイク
それから4年、日本は敗戦。国外の戦地からの500万もの引揚者を慰撫するためNHKのラジオ番組「外地引揚同胞激励の午后」が企画され、海沼に挿入歌の依頼が舞い込んだ。海沼の頭に浮かんだのは、4年前に送られてきた斎藤の「星月夜」だった。「スグオイデコフ カイヌマ」の電報を打って斎藤を呼び寄せると、こう頼んだ。
「1番と2番はそのままでいい、3番と4番を復員兵を慰労し励ます詞に改作してほしい」
自らが作詞した戦意高揚の童謡で多くの教え子を死地へと赴かせた自戒から、教師の職を辞し、作詞の筆を折っていた斎藤は、悩みぬいた末になんとか海沼の懇請に応えた。終戦の年の瀬の放送日12月24日の一週間前だった。問題の3番と4番は次のように「改作」されて一つに統合されて海沼に届けられた。
♪さよなら さよなら 椰子の島 お船に揺られて 帰られる
ああ とうさんよ 御無事でと 今夜も かあさんと 祈ります
これを高く評価した海沼は、曲名を「星月夜」から「里の秋」に変更するよう提案。歌手には当時小学校5年生だった童謡歌手・川田正子を起用して、本番に臨んだ。
川田が歌い終わったとたん、「感動した」「もう一度聞きたい」という電話がNHKに殺到。翌日からは同様の内容の郵便物が山のように届いた。NHK開局以来の大反響をうけて、「里の秋」は、翌年の正月に始まった「復員だより」で、半年間もテーマソングとして流され、これによってこの歌は子供向けの童謡から大人たちも共感して口ずさむ国民歌謡になったのだった。
軍歌「ラバウル小唄」への“意趣返し”
しかし、日本歌謡史を彩る敗戦直後のこの大事件は、作詞家と作曲家の数奇なエピソードがたまたまつながった偶然の産物だったのだろうか?
おそらく当事者の斎藤も海沼も、そしてNHKもそう思って驚いたことだろうが、筆者にいわせるとそうではない。日本人の内なる縄文人が、彼らの主食であり平和な暮らしのシンボルでもある「栗」の歌詞に触発されて作詞家と作曲家に憑依。さらにわが妄想をたくましくすると、「椰子」がわれらの内なる縄文人の静かな怒りをうずかせたのではないか。
元歌の「♪椰子の島 しっかり守って」とは「栗」が象徴する平和な暮らしを打ち捨てて海外に果実を求める侵略に他ならない。しかし、その野望はあえなくついえたのだから、侵略のシンボルである「椰子」の島から、平和のシンボルである「栗」が実る母国の故郷へ帰っておいで、と作詞家に乗り移ってそう「改作」を促したのではないか。
それは、同じく椰子をモチーフにした軍歌への“意趣返し”でもあった。その軍歌とは「聖戦」の勝利を「臣民」たちに敗戦間際まで楽観視させた「ラバウル小唄」(作詞:若杉雄三郎、作曲:島口駒夫、1945〈昭和20〉年)で、そのさびで「椰子」にその大役を担わせ、日本の南方侵略を明るく煽ったのだった。
♪恋しなつかし あの島みれば 椰子の葉かげに 十字星
しかし、それからわずか数カ月で皇国日本は敗れ、「臣民」は「国民」となり、彼らの愛唱歌は「ラバウル小唄」から「里の秋」に転じたのだった。
著者:前田 和男(ノンフィクション作家)
1947年東京生まれ。日本読書新聞編集部勤務を経て、ノンフィクション作家、『のんびる』(パルシステム生協連合会)編集長。著書に『冤罪を晴らす 食肉界の異端児の激闘20 年』(ビジネス社)、『昭和街場のはやり歌』『続昭和街場のはやり唄』(ともに彩流社)。
*本連載は、季刊地域WEBにて毎月掲載されます。本誌ではその内容を一部要約してお届けします。