「食料・農業・農村基本法」の改正案は参議院での審議が始まっています。連載最後は、改正基本法が成立してもおそらく欠けていると思われる部分を、お二人の識者が指摘します。2023年5月に公表された基本法検証部会「中間とりまとめ」の内容を元に『季刊地域vol.55(2023年秋号)』に寄稿していただきました。
「意欲ある農業者」に押しつけるより、「意欲の持てる農業・農村」整備を
榊田みどり(農業ジャーナリスト)
両論併記をどう融合するのか
2023年5月に公表された「中間とりまとめ」では、離農者の農地の受け皿となる「経営体」の育成、法人経営強化という従来の政策のベクトルは維持される一方で、今後、急激な農業者の減少が予測されるなか、副業・多業的に農業を営む「多様な農業人材」の参画も促すことが農業政策にも明記された。
ただし、これまでと同様に、国の認める「担い手」への農地集積を推進しながら、「多様な農業人材」の役割を具体的にどう位置づけるのか、曖昧なままの両論併記になった印象だ。この異なる二つのベクトルをどう融合するか、具体的に示さなければ、このことが現場では混乱の種になりかねないと感じる。
規模拡大しないと補助金がもらえない
昨年、山形県の農家の友人が、「息子が『百姓やめていいか?』と言ってきたんだ」と打ち明けてくれた。水田約5ha、平飼い養鶏1000羽規模の認定農業者。米価低迷のこのご時世、規模拡大する気はない。ところが、乾燥機の更新時期を迎え、補助金について行政に問い合わせると、「規模拡大の事業計画を出さないと対象にならない」と言われたそうだ。
機械更新ができなければ、離農せざるを得ない。認定農業者であっても、今後は離農者の農地の受け皿となって規模拡大するか、さもなくば離農するかを迫られるようなものだ。今、同じようなことが各地で起きていないだろうか。
「担い手」が規模拡大を迫られる一方、やみくもな農地集積は離農を促し、それが地域の衰退につながる危惧は、以前から指摘されている。今回は、「食料安全保障の観点から」農村政策を見直すらしいが、「農村=食料生産の場」という単純なベクトルで考えられたら、「効率化・生産性向上」に振り子が振れて、せっかく農村政策と農業政策の一体化に向かった2020年の「食料・農業・農村基本計画」から後退する恐れもある。
実際のプレイヤーである「人」にもっと焦点を当ててほしい。農業者にとって、農業という仕事は生計を立てる手段であって、生活のごく一部でしかない。農業をやるために生きているのでも、まして都市部に食料を差し出すために農業をやっているわけでもない。「こんな農業をやっていても幸せになれない」と感じたら、やめるのも自由だ。
国の言う「意欲ある農業者」に、否応なく設備投資や雇用リスク、さらなる農地管理の負担を押しつけるよりも、「意欲の持てる農業」「ここで暮らしたいと思える農村」への環境整備と人材育成について、農業に限らない総合的な視点で息の長い取り組みを考えなければ、長期的に、農地も農業資源も「食料安全保障」も、維持できないのではなかろうか。
「持続可能」という言葉を使うには、もっと覚悟がいるはずだ
楜澤能生(早稲田大学法学部教授)
妥協の産物 「持続可能」という言葉
基本法検証部会「中間とりまとめ」は、定義なき「持続可能」という言葉のオンパレードとなっている。
今日人口に膾炙する「持続可能」という概念は、1980年代90年代の国際的な開発環境政策の枠組みの中で出てきた「持続可能な発展sustainable development」に由来するが、財政学者・宮本憲一は、この言葉の沿革を振り返り、それがいかに妥協の産物として生まれたかを明らかにしている。
地球環境の限界と環境保護のための社会変革を、国際レベルで初めて討議したのが1972年の国連人間環境会議(ストックホルム会議)だった。ここでは本来、西欧型近代化に代わる思想や社会の在り方、新しい発展の形態を討議するのが目的だったが、開発途上国(ブラジル、インド)が「先進国が環境保全のために成長をやめろというのは環境帝国主義」と反発したため議論は進まず、次の会合は87年「環境と開発に関する世界委員会」(ブルントラント委員会)まで待たねばならなかった。その報告書「我々の共通の未来」は、この対立を「持続可能な発展」という妥協的な提言によって回避しようとした。「世界経済の成長速度を増大させつつ、地球環境への圧力を制御し得る方向に世界経済を再編成……、開発途上国の債務問題の解決、一次産品の価格安定化による開発途上国の農業の振興、多国籍企業活動の改善、技術基盤の拡大等が必要」とし、これを受けた1992年リオ会議は、(1)発展に対する権利(経済)、(2)公正で将来に負担をかけない配分(社会)、(3)エコロジー、の三つの中心的要素を含む「持続可能な発展」に関する宣言を採択したのである。
脱成長の覚悟を決めなければ「持続可能」は実現しない
こうして持続可能性は、社会を構成する3支柱《経済的、社会的、エコロジー的》発展が、それぞれ孤立的にではなく共に作用しあう目的とみなされ、3者間で常に新たに適切な調整が生み出されなければならない、いわば関係概念として理解されるようになる。
しかし3者間の調整は、妥協の帰結である限り、あれもこれもとなり、経済成長に代わる新しい発展の理念を実現するものとはならない。なんでもありの無規定な「持続可能」は、社会科学の用語としても、政策用語としても、そのままでは使えない空虚な枕詞にしかならないのである。
経済成長は、生産と労働の過剰を帰結し、自然資源の枯渇を早め、物質代謝を攪乱させ続けてきた。とすれば持続可能性は、富の生産総量の限界を前提とする脱生産主義に立つ、「成長なき経済」を前提としなければ、本来は成り立たないであろう。
この「成長なき経済」は、豊かさからの後退を意味するのだろうか? これまで豊かさを測る指標は国内総生産といった経済的で量的なものだった。この量的指標に代えて質的な視点から豊かさをとらえ直す必要があるのではないか。そうすれば一定水準以上の生産力の発展は持続可能性の絶対条件ではなくなる。
現行基本法も、経済とエコロジーの矛盾を放置している
さてこの視点から現行基本法の持続性概念を見てみよう。基本法4条は、農業の持続的な発展が、農業の自然循環機能に依拠するという認識を示し、自然循環を促進するような土地とのかかわり方=農法を実践することによって、はじめて持続的な農業が実現される、としている。ここでの持続性概念は、外部からの投入(肥料や農薬)を抑えて、土壌(自然)自身が持つ生産力を引き出すことにより達成されるものとして定義づけられているのである。
他方、現行基本法第2条は、食料の安定的供給が、農業の生産性向上の促進、農業と食品産業の健全な発展を通じ、多様化する国民の需要に即して、確保されなければならないとする。
さて「食料の生産性向上による安定供給」(経済)と、「自然循環機能を前提とする農法」(エコロジー)はどのような関係に立つのだろうか。後者の農法は、多投入による慣行農業の生産性に比べれば収量が落ちる。国民の需要にこたえる安定供給を本当にこれで確保できるのか。いわば両者が両論併記という形で別々の条文に置かれただけとなっており、政策統合が欠落している。このことこそ、基本法の理念が実現されてこなかった根本の問題ではなかろうか。とすれば、基本法の見直しの論議も、この問題の解決を中心的論点として展開されなければならないはずだ。
「中間とりまとめ」では、経済成長前提用語になってしまった
この視点から「中間とりまとめ」を見てみよう。
「今や持続可能性は農業・食品産業の発展や新たな成長のための重要課題として認識されるに至っている。」
「ビジネスにおいても持続可能性の確保の取組が企業評価やESG投資等を行う上での重要な判断基準となりつつある。」
「持続性に配慮していない食品産業等は資金調達がしにくくなる……」
持続性という言葉は、明確な定義がないままビジネス戦略の文脈で使用されている。ここでの持続性は、経済成長を当然の前提とするもので、自然循環機能に紐づけられた「持続性」概念の定義は姿を消した。したがって現行基本法における矛盾さえ、ここの議論には出てこないであろう。
「消費者ニーズに応える」でいいのか、から見直したい
この問題は、食料の安定供給を、消費者や実需者のニーズ、需要に応じた供給という前提から出発していることとも関係があると思われる。「好きなものを、好きなときに、好きなだけ」という消費者のニーズ自体を批判的に吟味し、新たな消費様式を想定して生産、流通を位置づけることが必要だろう。
また「中間とりまとめ」では担い手と農地の一層の減少を所与の前提として、スマート農業による労働生産性の向上を目指す提起がなされているが、それよりも、エコロジーに志向した生産方法の証明を要件として農家の所得を保障することにより、担い手と農地を維持確保する方向が検討されるべきではないか。土壌が持つ潜在的生産力の顕在化により、「理性的な需要」に応えられる供給力を確保することができるかどうか、これが農業の持続可能性を追求することの中身である。
(『季刊地域』2023年11月発行号に掲載された内容です)