『季刊地域』vol.57から始まった連載は、このウェブサイトで毎月更新します。誌面ではそれをまとめて別連載として続きます。どちらもお楽しみください。
前田和男(ノンフィクション作家)
馬への理不尽かつ不条理な仕打ち
今年は午(ウマ)年。馬は跳ねることからか、あるいはウマくいくという語呂合わせからか、昔から「縁起がいい」「景気がよくなる」と歓迎されているようだ。
ちなみに干支の12の動物たちのなかで家畜化されているのは、丑(ウシ)、卯(ウサギ)、午(ウマ)、未(ヒツジ)、酉(トリ)、戌(イヌ)と半数にのぼるが、このなかで人間にとって群をぬいて有用なのは馬である。
ウサギと鶏は食肉用に、ヒツジは食肉用に加えて衣料用に、犬は牧羊犬などの番犬や猟犬のほか一部地域では食肉用に、牛は食肉・乳製品に加え耕耘・運搬用に利用されてきた。これに対して馬は食肉用・耕耘・運搬に加えて騎馬・輜重馬(しちょうば)・伝令馬として軍用に、さらには競走馬としてエンターテイメント用に利活用されてきた。鶏にも闘鶏、犬にも闘犬、牛にも闘牛があるにはあるが、その華麗なる花形度において競馬はそれらを圧倒している。
馬が人間にとってこれほど有用なのに、やれ「馬の骨」「馬齢を重ねる」「駄馬」「馬の耳に念仏」だのと馬鹿にされ、評価はきわめて低い。なぜ、馬はかくも理不尽かつ不条理な仕打ちに甘んじなければならないのか?
じつはその答えは唄が知っている。洋の東西をとわず、馬ほど数多くの唄の素材にされている家畜はないからだ。
では、それらの唄たちを手掛かりにして、今回から3回わたって、馬と人間との理不尽かつ不条理な関係についてひもといてみよう。
馬産地の民謡に歌われた馬と人との相思
古来、馬は戦国時代に戦闘用の騎馬に使われはしたが、いくつかの日本史研究によると、それはごく一部の事象にすぎず、ほとんどは農耕や運搬を担って人間を補助。それゆえ人間から大切にされて唄にもされ、全国各地の馬産地で馬子唄や馬方唄として今にうたい継がれている。
それらの中から代表的な民謡を掲げる。
▼「南部馬方節」(青森県南部地方)
♪南部 ハァ良いとこ ハァ名馬の出所
一度 ハァお出でよ駒買いに
▼「秋田馬子唄」(秋田県仙北地方)
♪峠三里の 山坂道を
青馬よ辛かろう アリャ重たかろう
いずれも馬を引く馬方が仕事の合間にうたった労働歌だが、リズムは馬の歩みを思わせるゆったりとした節回し、歌詞にも人と馬との相思の情愛が込められている。
▼「チャグチャグ馬コの歌」(岩手県滝沢・盛岡地方)
♪馬コうれしか お山へ参ろ
金のくつわに 染め手綱
♪俺らが馬コは 三国一よ
嫁コしゃんと引け 人が見る

ウィキペディアより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%B0%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%B0%E9%A6%AC%E3%82%B3
当地に伝わる色鮮やかな装束をまとった馬が行列する祭礼行事をうたったもので、ルーツは馬耕技術が入ってきた16世紀とされる。馬への感謝と豊作祈願が込められ、子供向けのわらべ歌としても親しまれている。
このように、江戸時代までは、馬と人間とは相思の関係にあったことが、全国各地の馬産地生まれの唄たちは証明している。
「富国強兵」を下支えした「富国強馬」の軍国歌謡
ところが、明治のご一新でこれが暗転、馬にとって理不尽かつ不条理な事象が本格化。西欧に追いつけの「脱亜入欧」を推し進めるべく「富国強兵」策がとられるが、それを下支えしたのが「富国強馬」。自動車が大量生産される以前の時代であり、戦場で軍需物資や重砲などを運ぶのに馬は不可欠だったからだ。
これにより、馬たちの主たる役割は、農耕・運搬などの「民用」から戦争遂行の生きたインフラとしての「軍用」へと転換。それに伴い、それまで馬を「民用」と思っていた人間たちに、「軍用」であることを周知させるべく、「強馬なくして強兵なし」をテーマにした「軍歌」が多産増産されることになる。
数多あるなかで、「富国強馬」の最強のプロパガンダソングとなったのが、1939(昭和14)年に制作発売された「愛馬進軍歌」である(作詞:久保井信夫、作曲:新城正一)。

馬事思想を国民に普及させたいとの日本競馬会からの依頼を受け、陸軍省馬政課と農林省馬政局が主宰者となって歌詞を一般公募。大手レコード会社の競作とされ、藤山一郎(テイチク)、東海林太郎(ポリドール)、霧島昇(コロムビア)、藤原義江(ビクター)など当時の人気歌手の“歌合戦”に。おりしも1937(昭和12)年の盧溝橋事件で始まった大陸侵攻が泥沼化するなかで、わずかひと月で50万枚を超える大ヒット曲となった。
以下に歌詞を掲げる。
♪国を出てから幾月ぞ
ともに死ぬ気でこの馬と
攻めて進んだ山や河
執 (と)った手綱に 血が通う
♪昨日陥 (おと)した トーチカで
今日は仮寝の たか鼾 (いびき)
馬よぐっすり寝れたか
明日の戦さは手強いぞ
♪弾丸(たま)の雨降る濁流を
お前頼りに乗りきって
任務(つとめ)果たしたその時は
泣いて秣(まぐさ)を食わしたぞ
♪お前の背(せな)に日の丸を
立てて入城 この凱歌
兵に劣らぬ天晴の
勲(いさお)は永く忘れぬぞ
「愛馬進軍歌」以外にも「富国強馬歌謡」が数多くつくられた。以下に国民の戦意高揚に貢献したと思われる3曲を掲げる。
▼「討匪行」
1932(昭和7)年、作詞:八木沼丈夫、作曲/歌:藤原義江。前年の満州事変を受けて満州国が建国、日本軍部の大陸進出の野心が明らかになる年にリリースされた「富国強馬軍歌」の草分けである。
♪どこまで続く泥濘ぞ
三日二夜を食もなく
雨降りしぶく鉄かぶと
♪いななく声も絶え果てて
倒れし馬のたてがみを
かたみと今は分かれ来ぬ
▼「麦と兵隊」
作詞:藤田まさと、作曲:大村能章、歌:東海林太郎、ポリドール。「愛馬進軍歌」の前年の1938年(昭和13)にリリース。火野葦平の戦記小説「麦と兵隊」が評判になったのに目をつけた陸軍報道部の肝いりで制作され、大ヒット曲となった。
♪徐州徐州と 人馬は進む
徐州居よいか 住みよいか
洒落た文句に 振り返りゃ
お国訛りのおけさ節
兵は徐州へ前線へ
▼「暁に祈る」
作詞:野村俊夫、作曲:古関裕而、歌:伊藤久男、コロムビア。日米開戦の前年の1940(昭和15)年、陸軍省馬政課の肝いりで制作された国策映画「征戦愛馬譜 暁に祈る」の主題歌。3番以下に“軍馬一体”が描かれている。
♪ああ軍服も 髭面も
泥にまみれて何百里
苦労を馬と分け合って
遂げた戦闘(いくさ)も 幾度か
♪ああ傷ついた この馬と
飲まず食わずの日も三日
捧げた生命(いのち)これまでと
月の光で走り書き
なお、この歌については、心ならずも出征するはめになった下級兵士たちの望郷の念と家族愛を刺激して「反戦歌」「厭戦歌」として愛唱されヒットしたという見方もあるようだが、人間の都合で遠い戦場に駆り出された馬たちにとってみれば「怨戦歌」でしかなっただろう。
童謡も戦争の協力者に
戦争を鼓舞したのは軍歌だけではない、童謡もまた戦争の協力者にさせられた。その代表が馬に題材を求めた「めんこい仔馬」(1940<昭和15>年、作詞:サトウハチロー、作曲:二木他喜雄、コロムビア)だ。
この童謡は現在も歌いつがれているが、それは次の1番のみである。
♪ぬれた仔馬の たてがみを
なでりゃ両手に 朝の露
呼べばこたえて めんこいぞ オーラ
駆けていこかよ 丘の道
ハイドハイドウ 丘の道
じつはオリジナルには以下の2番3番があったが、戦後GHQによる新体制に忖度して封印された。
♪赤い着物(べべ)より 大好きな
仔馬にお話し してやろか
遠い戦地で お仲間が オーラ
手柄を立てた お話を
ハイドハイドウ お話を
♪明日は市場か お別れか
泣いちゃいけない 泣かないぞ
軍馬になって 行く日には オーラ
みんなで万歳 してやるぞ
ハイドハイドウ してやるぞ
日中戦争の勃発で戦時体制に入ると、小学生たちは「少国民」とよばれて、やがて聖戦を担う“兵隊さんの卵”として授業で軍事教練を受けるようになる。まさに「めんこい仔馬」は童謡の形をかりた「少国民」育成に向けた軍歌であった。
当時の小学生たちは、「めんこい仔馬」を教わる直前まで、馬をテーマにしたこんな唱歌を習って愛唱していた。
▼「小馬」
作詞:石原和三郎、作曲不詳、明治44年尋常小学校唱歌、昭和7年新訂尋常小学校唱歌。
♪はいしいはいしい あゆめよ小馬
山でも坂でも ずんずん歩め
お前が進めば わたしも進む
歩めよ歩めよ 足音たかく
▼「雨降りお月さん」
1925(大14)年、作詞:野口雨情、作曲:中山晋平
♪雨降りお月さん 雲の蔭 (かげ)
お嫁にゆくときゃ 誰とゆく
ひとりで傘 (からかさ) さしてゆく
傘 (からかさ)ないときゃ 誰とゆく
シャラシャラ シャンシャン 鈴付けた
お馬に揺られて ぬれて行く
いずれも農耕で生活を共にした馬との交歓を情感ゆたかにうたった抒情歌だが、そうしたそれまでの童謡や唱歌を真逆の戦争の世界へと反転させたのが「めんこい仔馬」だった。
「軍馬」を強要された仔馬も戦時体制の犠牲者だったが、この歌をもって「少国民」になることを強要され子供たちも同様であった。
100万頭の軍馬が戦地に斃れた
「富国強馬」の軍歌や童謡を笛吹歌にして、海外の戦地へ駆り出された馬たちはいったいどれぐらいいて、どれぐらい犠牲になったのか?
青木玲『競走馬の文化史:優駿になれなかった馬たちへ(筑摩書房、1995年)によると、「軍馬」として徴発された馬たちは、日中戦争以降太平洋戦争までに50万~70万頭とされている。
加藤康男『靖国の軍馬』(祥伝社新書、2017年)では、帝国競馬協会編『日本馬政史』、武市銀治郎『富国強馬』、偕行社『軍馬・軍犬・軍鳩合同慰霊祭』パンフレット等の史料にあたった結果として、日清・日露戦争から太平洋戦争終結までに軍馬として徴発された総数は約100万頭。その内訳は、日清戦争時で約13万頭、日露戦争で約47万頭、日中戦争以降で数十万頭。そしてそのすべてが戦地で斃れて帰国したのはわずか1,2頭だったとしている(いっぽう前掲の『競走馬の文化史』では「功労軍馬」の表彰をうけた1500頭超が内地に送還されたとあるが、徴発された馬たちのほとんどが戦場に斃れたことに変わりはない)。
かたや徴兵された日本軍兵士たちは太平洋戦争末期でおよそ550万人に達し、うち230万人が戦死した。すなわち半数以上が生き残って故郷へ帰ることができたわけだが、100万頭の馬たちにはそれはかなわなかった。
海外の戦地では、戦闘で死んだ馬よりもはるかに多くが秣が払底して餓死、さらには現地に残置されて生き残っても、戦勝国に接収されて殺処分されたと推察される。先に掲げた「強馬軍歌」では、“人馬一体”と歌いあげながら、馬たちは最後は人間によって鉄砲玉同様、いやそれ以下の消耗品として見捨てられたのである。
昨年は戦後80年ということで、天皇臨席の全国戦没者追悼式をはじめ、戦没兵士たちへの哀悼が各地で例年にまして厳粛に捧げられたが、馬たちへの追悼は、少なくともマスメディアの報道では寡聞にして聞かれなかった。
戦場で斃れた馬たちの無念の叫びが聞こえてくる。
なにが「馬の耳に念仏」だ、「人の耳に念仏」ではないか、と。
著者:前田 和男(ノンフィクション作家)
1947年東京生まれ。日本読書新聞編集部勤務を経て、ノンフィクション作家、『のんびる』(パルシステム生協連合会)編集長。著書に『冤罪を晴らす 食肉界の異端児の激闘20 年』(ビジネス社)、『昭和街場のはやり歌』『続昭和街場のはやり唄』(ともに彩流社)。
*本連載は、季刊地域WEBにて毎月掲載されます。本誌ではその内容を一部要約してお届けします。