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【唄は農につれ農は唄につれ 第24回】2曲の“郵便馬車の歌”が戦後復興をジャンプアップさせた!?

『季刊地域』vol.57から始まった連載は、このウェブサイトで毎月更新します。誌面ではそれをまとめて別連載として続きます。どちらもお楽しみください。

前田和男(ノンフィクション作家)

戦後復興はリンゴとミカンで始まった!?

「軍人にあらずば人にあらず」「軍馬にあらずば馬にあらず」の人馬一体による戦争の時代は、1945(昭和20)年8月15日をもって終結。日本は無残な自滅からの再起に向かうことになった。その前途多難な試練は、しばしばリンゴとミカンで始まったといわれてきた。

 終戦の年には、並木路子が歌う♪赤いリンゴにくちびるよせて~の「リンゴの唄」(作詞:サトウハチロー、作曲:万城目正)が、その翌年には川田正子が歌う♪みかんの花が咲いていた~の「みかんの花咲く丘」(作詞:加藤省吾、作曲:海沼實)が、廃墟のなかで絶望の淵に立たされた人々を励まし癒したからだ。

 筆者の見立てでは、その先にはさらなる思いもかけない大団円のストーリーが待ち受けていた――すなわち、戦争遂行のシンボルだった馬たちが「平和の使者」へと変身、リンゴとミカンの歌が後押した戦後復興をジャンプアップさせたのである。

 その歌とは、1951(昭和26)年に日本コロムビアからリリースされた「あこがれの郵便馬車」だ(作詞:丘灯至夫、作曲:古関裕而)

♪南の丘を はるばると
 うれしい便りを 乗せて
 ひずめの ひびきもかるく

 馬に託された希望に満ちた歌詞と、どこまでも明るいメロディと、岡本敦郎のけれんのない澄んだ美声で、たちまち国民的大ヒットとなった。

 この年は、戦後歌謡の当たり年で、後年オリコンによってまとめられた「当時の売上・流行を元にしたランキング」によると、1位「テネシー・ワルツ」(江利チエミ)、2位「リンゴ追分」(美空ひばり)、3位「お祭マンボ」(美空ひばり)、4位「ゲイシャ・ワルツ」(神楽坂はん子)、5位「ああモンテンルパの夜は更けて」(渡辺はま子)、6位「赤いランプの終列車」(春日八郎)に続く7位にランクインしている。

 当時筆者は幼稚園児だったが、ラジオから流れてくるのを聞き覚えて、いまでも口ずさむことができる。おそらく団塊世代以上にとっては、往時の大衆の心をつかんだ忘れがたい戦後歌謡の一曲である。

実際の郵便馬車は嫌われ者だった!?

 戦後復興は、リンゴとミカンの歌で始まりウマの歌で飛躍をとげたとは、われながら画期的な見立てだと内心ほくそえんでいたところ、根本にかかわる疑念がわいた。そもそも当時の日本国民はなぜ「郵便馬車」を「夢と希望のシンボル」と受けとめて共感したのか。

 というのも、調べてみると、郵便馬車は、欧米で郵便と交通の両方を担う公共インフラとして18世紀末に制度化されて発展、日本では脱亜入欧の近代化の一環として明治6~9(1873~76)年頃に本格導入された。しかし鉄路の整備にともなって郵便輸送は順次鉄道におきかえられ、明治22(1889)年の東海道線(東京~神戸)の全通後は一気にすたれていく。その「現役時代」は わずか30年ほどで、「あこがれの郵便馬車」がヒットした時点では、すでに遠い過去の歴史的遺物になっていた。

 さらに、歌詞では「♪うれしい便りを運んでくる夢の乗り物」と描かれているが、実際の郵便馬車は厄介このうえない嫌われ者であったようだ。往時の新聞を渉猟すると、以下のようなネガティブな記事が散見される。

「(空車だった)中央郵便電信局の赤馬車何物にや驚きけん俄かに暴れだし咄嗟と見る間に土砂を蹴立てて驀進(ばくしん)に駈出し広小路より電車と競走し……」(「読売新聞」明治38年1月7日朝刊)

「(老人が)郵便馬車に轢かれ後頭部へ長さ二寸骨に達する傷其他手足に八ケ所の重軽傷を負ひ(略)後をも見ずして馬に鞭を加へ逸散に駈け去りしとは不都合も甚だしい」(「読売新聞」明治38年7月28日朝刊)

「(11歳と4歳の兄弟が)遊び居ると郵便馬車が疾駆し来り誤って(弟の)寅吉を馬足に掛け面部へ微傷を負わせし騒ぎに警官が駆付け介抱して……」(「読売新聞」明治39年5月20日朝刊)

あこがれの郵便馬車(日本コロンビア)

嫌われ者からあらまほしき日本のシンボルに

 それにしてもこんな嫌われ者だった「遠い過去の遺物」が、なぜ「憧れの乗り物」となって戦後の人々の共感を呼んだのか?

 こうは考えられないだろうか。

 一つは、実際の郵便馬車が走っていたのは1世代以上も前の明治末までで、(当時の日本人で)それがいかに厄介者であるかを体験して知っているのは少数派であった。それに加えて、こちらのほうがより重要と思われるが、欧米列強に追いつけと近代化を進めた結果、昭和に入って「戦争の時代」を招いてしまった、そんなに急がずともよかったのにという反省から、過去の歴史遺物である郵便馬車が「穏やかで牧歌的な日本」のあらまほしきシンボルに擬されたのではないか。

 作詞者の丘灯至夫も、新聞の取材にこう述懐している。

「『あこがれの郵便馬車』は昭和二十七年。新宿辺りはまだ瓦礫の山。何もかも無くなって、人恋しい時代ですよね。私らは夢をつくってあげるのが商売。皆さんが歌ってくださったのは、そういうあこがれがあったからなのでしょう」(「読売新聞」大阪版1994年4月10日夕刊「明治人・大正人」73回)

 ちなみに丘は大正6(1917)年、福島県北部の田舎町の生まれで、厄介な嫌われ者の郵便馬車を目撃・体験はしていないと思われる

ロシア歌謡『トロイカ』も戦後復興の立役者

 じつは、郵便馬車を舞台にして戦後復興をさらに飛躍させた大ヒットソングがもう1曲あった。「あこがれの郵便馬車」とほぼ同時期に国民歌謡となったロシア生まれの「トロイカ」である。

「音楽舞踊団カチューシャ」の1954年の公演プログラム。冒頭に「トロイカ」の合唱(畠中英輔・蟹池弘美編『ロシアの歌に見せられた人々〔第1弾〕』〈ロシア音楽出版会〉)より

「トロイカ」とはロシア語で「三頭立ての馬車」のことだが、そもそも原曲の正式タイトルは、
“Вот мчится тройка почтовая”(ほら、三頭立ての郵便馬車が駈けている)

 理由は後述するが、以下に掲げる日本で流布されている歌詞もオリジナルとは違っている。

♪雪の白樺並木
 夕日が映える
 走れトロイカ ほがらかに
 鈴の音高く

♪響け若人の歌
 高鳴れバイヤン
 走れトロイカ かろやかに
 粉雪蹴って

♪黒いひとみが待つよ
 あの森越せば
 走れトロイカ 今宵は
 楽しいうたげ

 ついで以下に4~5番のオリジナルと対訳を記す。

♪Ах, милый барин, скоро святки,
 И ей не быть уже моей;
 Богатый выбрал да постылый,
 Ей не видать веселых дней”.
 外はもうすぐクリスマス
 あの娘に俺の思いは届かない
 金持ちの長(おさ)に嫁いでく
 楽しい日々はもどらない

♪Ямщик умолк и кнут ременный
 С голицей за пояс заткнул.
 Родные . . . Стой, неугомонный!” –
 Сказал, сам горестно вздохнул.
 若き御者は黙ってムチをしまう
「おい馬ども!止まれ!静かにするんだ!」
 若者は悲しげに溜息をついた

 日本語の訳詞ではひたすら明るい「相思相愛の青春のラブソング」だが、オリジナルは、恋人を金持ちの地主に奪われた若い御者が行きずりの老人に吐露する「怨歌」で、真逆ではないか。

 いったい、誰が何のためにオリジナルの歌詞を真逆に「改訳」したのか?

 筆者の見立てでは、それを行なったのは戦後の民主化で合法化された日本共産党の文化プロパガンダ活動の一環として展開された「うたごえ運動」。「真逆の改訳」の理由は、こうである――。

「うたごえ運動」では、娯楽の少なかった終戦直後に人々に歌う喜びを与えるため、世界各国の大衆歌曲や民謡から誰もが口ずさめる平易な歌を選曲、日本語の訳がつけられたが、集団で合唱する「ロシアの歌謡」はそれにはうってつけだった。

 しかしロシア歌謡の多くには「社会主義臭」がにおう。そこで、オリジナルからそれを消し去って一般大衆に受け入れやすくし、「うたごえ運動」の背後にある共産党への大衆的支持を広げる戦略がとられた。その「改訳」の多くを担ったのはシベリア抑留時にソ連当局から政治教育を受けて帰国した音楽家たちによって結成した「音楽舞踏団カチューシャ」であり、その成功の代表事例の一つが「トロイカ」だった。(なお、これについては敗戦後の政治情勢が複雑にからんでいて補足が必要だが、紙幅の制約からこれ以上の説明は省略する。興味のある方は拙著『「カチューシャ」とウクライナ戦争』(彩流社、2024年)で詳述したのでご参照されたい)

筆者の著書『「カチューシャ」とウクライナ戦争』(彩流社、2025年)

 左翼運動圏から生まれた「トロイカ」は、やがてNHKの「みんなのうた」でも放送され、小学校の音楽の教科書にも掲載される。そして、いまや多くの老若男女が口ずさむ国民歌謡となったのである。

 しかし、これは「うたごえ運動」の戦略の成果というよりも、郵便馬車を舞台にした「怨歌」を「ラブソング」に反転させたことが、たまたま戦後復興から脱して飛躍しようとしていた「時代の気分」とシンクロしたからだと思われる。その点では、政治性ゼロの「あこがれの郵便馬車」も同じであった。

 というのはきれいなまとめ方であって、じつは日本の戦後復興を大きく飛躍させたのは、皮肉なことにかつて日本が統治した半島からの「特需」であった。ほとんどの国民は気づかなかったか、あるいは気づいていても知らないふりをしていたのか、この時日本にやってきた「あこがれの郵便馬車」とは、隣国で同じ民族が二つに分かれて血で血を洗い200万人を超えるともいわれる犠牲者を出した悲劇の戦争だったのである。


著者:前田 和男(ノンフィクション作家)

1947年東京生まれ。日本読書新聞編集部勤務を経て、ノンフィクション作家、『のんびる』(パルシステム生協連合会)編集長。著書に『冤罪を晴らす 食肉界の異端児の激闘20 年』(ビジネス社)、『昭和街場のはやり歌』『続昭和街場のはやり唄』(ともに彩流社)。

*本連載は、季刊地域WEBにて毎月掲載されます。本誌ではその内容を一部要約してお届けします。


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農文協 編
遊休農地の活用策を探るシリーズの第3弾。 「誰が?」では、下限面積が廃止になった影響を検証。これまで農地を持たなかった人が小さい畑を取得する動きが各地で生まれている。農家も農地も減少しているが、兼業・多業による小さい農業が新しい「農型社会」をつくる事例を。 「なにで?」は農地の粗放利用に向く品目を取り上げた。注目はヘーゼルナッツ。 「どうやって?」コーナーでは、使い切れない農地を地域で活かすために使える制度・仕組みを取り上げた。
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